戻って来てほしい—「かつての小弟子」へ(一) 文/中国大陸の大法弟子
(明慧日本)私は今年20才で、10才の時に法を得て、多くの「かつての小弟子」と同じように、周囲の環境に影響され、歳月が過ぎ去るにつれて、いつの間にか常人の物事に執着し、修煉をするかしないかのようになってしまいました。常人の次元から見て、この数年の迫害の中で、母が修煉を堅持したため、家庭に与えた影響はかなりのものでした。以前は両親の意見はいつも一致していましたが、母が不法に連行されてからというもの、両親はいつでも離婚する危機を潜んでいました。
2000年、私がまだ小学生の時に母が初めて不法に連行され、勇猛果敢な父は毎日のように気が動転して私に泣きつき、まるで天が崩れて来るかのようでした。ある日、父は気が狂ったように、床にひざまずいて頭をぶつけ、私に大法の悪口を言うよう脅し、私はその難関をしっかりと突破することができませんでした。
何年か過ぎ去り、心の中はやはり師父を信じていますが、しかし修煉はあまりにも苦しいと思い、自分も良く行っておらず、ずっと精進せず、ただ2001年に一度母について北京へ行ったぐらいでした。その後、母と一緒に何回か資料を配布したことがあって、正念を発することも学法や煉功も少なくなり、母に学法や煉功を誘われても煩わしいと感じて、反抗する気持ちがとても強かったのです。中学生と高校生の間は何度か後悔したこともありますが、学法と煉功を堅持することはできませんでした。その時は母に、真相が顕現した時にあなたは泣き崩れるでしょうと言われました。
私はずっと一つの考え方がありました。つまり、大法を修煉するものは最も幸運でありながら、しかし私たち大法弟子はどうしてこんなに「生涯に幾多の挫折・失敗を繰り返す」のか、なかなか納得することができませんでした。私は体も心も特に何も感じることなく、法を得た時は小さかったからかも知れません。元々まだ小さい時の考え方を持っていて、あまり大きな衝撃を受けておらず、表面上で大法は私に何も利益を与えていないかのように感じていました。私は小さい時、友達から、私たちは天から落ちて来て、そのときになれば天門に直通する長いはしごが現れて、私たちはそこから帰ることができると聞いていました。しかし、「天のはしご」が本当に目の前まで来ているのに、私は大切にすることを知らず、かえって私たちはどうして「生涯に幾多の挫折・失敗を繰り返す」のかと思い、また常人のものを求めて、常人の中で楽に暮らすことを考えていました。「大法弟子だから、何も現れてくるべきではなく、現れたら、それが間違いだと思わないでください。自分が他の人と同じようになるべきだとも思わないでください。それぞれの情況が違うからです。大事なのは自分の行いがどうなっているかということです。考えの中でいつも執着しているのは皆常人のことであり、ひいてはおかしくなるまで情に妨害されているのに、魔難が来たら、『大法弟子の私が長期にわたって魔難に遭っています』とまた言うのです。(皆笑って)(先生のため息) ですから、時に師父が厳しく言っても良くないし、やさしく言っても皆さんは悟りません。もうすぐ終わりますので、皆さんは自分のことを良く考えるべきです。時間は人を待ちません!」(「大ニューヨーク地区法会での説法」)
新経文が出た時、私は任務を完成するかのようにちらっと見ただけで、時には時間がとても限られていると知っていて、精進しようと思いながらも、線香花火のようにあっという間に消えてしまいました。大学に入って、法を学び始めようと計画を立てたにも関わらず、電子書籍を持っていながら、一学期になっても『轉法輪』を一講すら読み終えられませんでした。毎日常人の中にいるし、自身も精進していないことを加えればなおさらのことです。常人のものに執着するなら、大体において常人に等しいのです。しかし、大法を捨てられず、落ち着いて来た時はとてもつらくて、真相を伝えようとしてもなかなか上手くできませんでした。このようにだらけてしまい、徐々に自分に対してますます失望を感じ、師父もおそらく私を受け入れてくださらないだろうと思い、行き当たりばったりの毎日を過ごしていました。
(続く)
2008年12月20日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/12/14/191066.html)
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