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戻って来てほしい—「かつての小弟子」へ(二)


文/大陸の大法弟子

 (明慧日本)去年後半のある日、十年前に知り合った1人のおじさん(同修)から電話がありました。実は母が私の状態をとても心配していて、彼に助けを頼んだとの事でした。当時初めて母と煉功場へ行った時、私に静功を教えてくれたのは彼でした。私たちはとても長い間、顔を合わせたことはなかったのですが、彼は現在、私の通っている大学と同じ都市で働いていることが分かったのでした。

 このおじさんは私と会う事だけで終わらせるのではなく、目的に達しないと諦めないつもりのようで、非常に根気よく、私に彼のところ(小さな煉功場)に行かせていました。私は初めはあまり行きたくなかったのですが、面子のために仕方なく彼について他の現地の同修に会い、学法と煉功をすることにしました。

 おじさんはいつも私に一緒に外に出て煉功するようを呼んでいました。私はずっとそれに応じませんでしたが、おじさんは絶えず私にメールを送ってきていました。その時、おじさんのことをうるさいと思っていましたが、嫌がっていることが分かってもあまり良くないので、このようにして時間が経つにつれて、ますます時間がもったいないと感じるようになり、非常に人に真相を伝えたくなって、だいぶ精進するようになってきたのでした。

 私は堅持して法を学び、そしていつも夜にバスに乗って(私は学校の寮に住んでいる)おじさんの煉功場に通い始めました。初めは受け身の態度からそのうちに自ら積極的に煉功しようとするまでになりました。今になって、このおじさんにとても感謝しています。たとえ母であってもこれほど根気よく熱心にしてくれることはないでしょう。私はこれが師父の按配であることを知っています。このおじさんは同修を助けることに対してとても熱心でした。もしこのような人ではなく他の根気が無い人であれば、おそらく私は大法の修煉に戻ってくることは出来なかったでしょう。

 私がもうすぐにでも自分を放棄しようとした時、自分でも自分が劣っていて、全く望みがないと思っていた時、師父は私を放棄しませんでした。私が自分の力で戻って来られないと思われたのでしょう、このような環境と機会を作ってくださいました。今回、私は師の洪大な御恩を強烈に感じ取りました。『洪吟』「高處不勝寒」にある、「人間の事を操り尽し、天上の苦に心を労す」を思い出します。師父はこれほど苦労されているのに、私のしたことは何でしょうか? 何もかも師父に気遣いばかりさせてしまい、もしこれでもしっかりと行うことができなければ、生きている甲斐がないと思いました。

 小さい時は、いつも大人について煉功していましたが、今はやっと本当に修煉をしていると実感することができるのです。大人が付き添わなくても自発的に法を学ぼうとしています。これまでさまざまな人心を取り除くことができなかったため、どんなことに従事してもうまく行かず、結局多大な時間を無駄にしてしまいました。とても苦しかったです。事実上、これもまた常人の角度で問題に対処していて、常人の良いと思われることに出会えると嬉しく、常人の中の不調に出会うと落ち込みました。師父は『洪吟』「跳出三界」で、「常人の苦楽を記さざれば、乃ち修煉者、世間の得失に執せざれば、羅漢也」と説かれました。この「修煉者」の境地に達することはそう簡単ではないと思われるでしょうが、しかし、師父は『洪吟二』「精進正悟」の中で、「学法を怠らざれば変は其の中にあり、堅信して動かざれば果は正しく蓮と成る」と説かれています。ならば私はそれに照らして行います。「修は己にありて、功は師にあり」(『轉法輪』)

 時には同級生に真相を伝えようとしてもどう話したら良いか分からず、かえって同級生から私に真相について言及します。しかし、このようにいつまでも師父に頼って人に口を開かせる事ばかりではだめで、自分も積極的に対処しなければなりません。すべての智慧は大法の中にあるため、どうしたら良いか分からないときは法を学ぶことです。

 以前は私のMP3の中には常人の歌ばかりで、暇があるといつも鼻歌を歌っていましたが、今は1曲も残さず全て大法の曲に入れ替えました。何人かの修煉者はドラマが好きで、毎日欠かさず見ていて、良くないと本人も思いながらも、なお見たがって、ついこの心に従って行ってしまっています。また一部の修煉者は毎日出勤や学校が忙しくて、煉功に支障をきたしています。苦しい環境の下にいる時には、何が最も重要であるかをはっきり知っているのに、環境が緩まるとかえって常人の中のこまごまと煩わしいことにつきまとわれます。実際これらはすべて小さい事ではなく、それぞれを一つ一つの関門として見なさなければならず、師父がいつも強調されているように、時間がとても緊迫しているからです。

 私は今、「夢醒」という歌の中の「輪廻転生 数千年、何のためなのか」という歌詞を聞きながら、10年ほど前は大人に付いて修煉していたものの、今になって修煉をするかしないか迷ってしまい、なんと呼んだら良いのか分かりませんが、「かつての小弟子」と称することにしましょう。もしあなたの心の中で、まだ師父と法を信じるのならば、早く邁進して、常人の中の事に執着しないようにしましょう。もしかするとあなたは私と同様に、迫害の中で苦しみに耐えて来ているのかも知れません。しかし消極的になってはいけません。私は新年祝賀祭の「創世記」を見た時にいつも涙があふれ出ます。決して容易でなくても、私たちはくれぐれもしっかりと歩むのです。『洪吟二』の「梅」を覚えているでしょう。「濁れる世に清蓮億万の梅、寒風に姿更に翠(すい)(注:ここでは美しいの意味)、連天(注:連日の意)の雪雨神仏も涙す、かえりみる梅の帰るを、世中に迷い事に執着する勿れ、正念を堅く定めれば、古(いにしえ)従(よ)り今に到る、只這(こ)の一回の為」。 

 (完) 

 2008年12月21日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/12/14/191066.html