日本明慧
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法理に従い、内に向かって探すことを学ぶ

(明慧日本)私はすでに10年余りの修煉を経たので、修煉は自分の心を修めることであることが分かっています。しかしどのように修め、どのように内に向かって探すのかははっきりしませんでした。

この数日間は状態がよくなかったので、発正念時も心が鎮まらず、雑念が入り、学法のときも心が落ち着きませんでした。内に向かって探すと問題は山ほど探し出せましたが、状態は良くなりませんでした。「まさかあの事なのか?」突然数日前に家で起きたあのつまらない出来事ではないかと思い出しました。

それは数日前に夫が酢豚を作ったのです。ちょうど私が一口食べようとした時に、「酢を多く入れてあるのであなたは好きじゃないでしょう」と夫から言われました。今まで酢豚料理が好きではないと言った覚えもないので、その時心のバランスがとれず不愉快な気持ちになりました。がまんをして何も言わず、表に出さず、度量のある態度をとりましたが、心の中で不満が生じました。普段私は何もかも彼に譲り、おいしいものは先に彼に食べさせたのに、家でこんな料理はめったにしないばかりか、私が一口食べることで、このように言うなんて、その数日間は彼を見るだけでイライラしていました。彼と話もしたくない気持ちでした。私は普段金銭に対して淡白で、捨てることも、個人の利益にたいしても気にしない人だと、彼も親戚も皆認めるほどでした。

『転法輪』を開いて、「得と失」を読みながら、自分に照らして探しました。1時の正念が終った後、引き続き心を鎮めて学法しました。知らないうちに法理が現れて、今まで歩んできた修煉の道で起きた出来ごとを思い出しました。「われわれの法門は、人心を真っ直ぐに指すもので、個人の利益や対人関係の軋轢において、それらのことを気にかけないでいられるかどうかが肝要です。寺院や奥山で修煉する場合は、完全に常人の社会と断絶させ、強制的に常人の心を放棄させ、物質的利益が得られない状況に身を投じさせて、失わせるのです。それに対し、常人の中で修煉する人には、このような方法をとらず、常人の生活環境のまっただ中にいながら、それらのことに淡々としていられるよう求めます。言うまでもなく、これは大変難しいことですが、われわれの法門の最も重要なことでもあります。ですから、われわれの言う失は、より広い意味のもので、狭い意味のものではありません」「これはわれわれ自身の心と直接に関係していることなので、良くないものを取り除こうと思えば、まず自分自身の歪んだ心を是正しなければならないのです」。

これは自分の心に直接関係があることだと私は急に悟りました。師父は夫の口を利用して私を気付かせていたのです。心の底に隠れている私心を暴露させて、それを取り除かせているのです。私が少なく食べることで、個人の利益を欠き、不機嫌になり、彼が自分に対して関心を持たない時、利益を独占していると不満を持っていたのです。これこそが外に向かって探すことではないでしょうか? 師父は「矛盾が暴露されなく、問題が顕れてこないと、あなたはその執着を見つけることが出来なくなって、その執着に気付かなくなります。すべてが平和であれば、どうやって修煉が出来ますか?」(『各地での説法7』『米国首都法会での説法』)。師父のおっしゃる事は確かで、自分では利益に対して捨てることができると思い、関をのりこえることが出来ると思い、大した問題はないと思っていても、事実上利己的な心はまだとても頑固に残っていたのです。実を言うと普段夫は私に対してとても優しいのです。「自己執着」の根は、すべての人心の表れであり、旧宇宙の根本的な属性である「私」から生まれるものです。

修煉の道では自分の圓満に関係ない問題は表れて来ないのです。だから私達の一思一念も法理に合わなければなりません。師父は私達に次元を高めるチャンスを与えて下さっており、邪悪は私達の執着を見つけて邪魔をしています。大法弟子として、私達は師父の教えに従って、問題に出会うときは内に向かって探し、法を多く学び、法理を悟り、人心を放下して、衆生の救い済度に力を尽くすべきだと思います。

ほんの僅かな個人体得ですが、それを書き出して、その執着を暴露し、早くそれらを取り除いて、早く修めて行きたいと思います。

2008年12月24日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/12/21/191844.html