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世界のいたる所で真相を伝え、衆生を救い済度する(一)

—台湾天国楽団での修煉体験


文/台湾の大法弟子

(明慧日本)私は2001年母親の勧めで法を得ました。台湾天国楽団は2006年10月に成立されましたが、私の母はその3ヶ月前にすでに参加を申し込んでおり、同時に私の名前も申し込んだのでした。申し込んでから私に参加するかどうかと聞いてきたのですが、私も一口に[いいです]と返事しました。続いて母は、「もうあなたのために申し込んだのよ、私が一番目で、あなたが二番目なのよ。」と言うのでした。これより私の天国楽団での修煉が始まりました。

 私は新唐人合唱団のメンバーだったので音楽理論も少しわかっていました。トランペットも吹いていたので、自然とトラペットチームの声部長(トランペット部の協調者)になりました。二ヵ月後、台湾地区の協調者は出国前に強調の重任を私に引き渡しました。それ以来、私は天国楽団でトランペット奏者と同時に協調者の二つの身分を与えられました。

 私は比較的に若いので、多くの同修は私を知りませんでした。突然このような人物が現れて、このように巨大な楽団の責任者になり、しかも天国楽団に対する要求はとても厳しい上、当初の私は熱意だけでことを進めていたので、顕示心、幹事心などが次々と暴露されました。故に一部の同修はまるで虫眼鏡で私の一つ一つの言動を見ているようにさえ感じました。

 あまり深く考えずメールを発信したことがありましたが、その結果、南部、北部の同修がみな「慈悲なるご指摘」をしてくれるので、最高記録は一日で5,60通の電話を受けたこともありあました。しかも設立当初は雑務も非常に多かったので、逃げたいと思うときもしばしばありました。しかし心血を注いだ分代価もありました。後にある同修が私に言ってくれたのですが、彼は一年くらい私を観察しましたが、毎回他の同修が指摘した欠点をその次には直していたとのことでした。つまり、協調者として私は合格したと言うことでした。

 現在に至るまで、台湾天国楽団は100回以上の活動に参加しており、私自身も国内外の70以上の活動に参加しました。この活動でも私を見つけ、あの活動でも私を見つけ、国内の活動でも私を見つけ、国外の活動でも私を見つけた人は、きっと私を名門のお嬢さんと思うかもしれません。そうじゃないと、どこにそんなにお金と時間があって、こんなに多くの活動に参加できるのでしょうか。事実上は私にも家庭と仕事があり、ただ私の夫と上司は大法に対して大変支持しており、そのため私も気使いすることなく法を証明することに専念できているのです。


一、「天国楽団」の草分けから成熟までの過程

 台湾天国楽団が成立したときは、多くのことは探りながらの前進でした。当初はほとんどのメンバーが楽器を触ったこともなく、多くの老人メンバーが楽器を買いに行ったとき、楽器屋の主人はどうしてこんなに多くの老人がいきなり楽器を買うのかと、不思議そうに見ていました。それはこれらの楽器を鳴らすにはやはりある程度の専門知識と肺活量が必要だからでした。当時はみな絶対無理だろうと思っていました。

 2006年12月、台湾法会が新庄で盛大に行われたとき、私たちは板橋から新庄までずっと演奏しながら行進しました。当時の光景を見た楽器の先生と楽器屋の主人は目を丸くしていました。わずか2ヶ月でこの老人らが楽器を鳴らせるだけでなく、歩きながら演奏できるなんて!多くの人が当時涙を流しました。

 天国楽団のメンバーはとても苦労をしています。厳寒でも酷暑でも同じ服装を着る以外にも、全力で演奏すると同時に行進の足並みにも気をつけなければならないし、目は指揮者を見ながら耳は演奏を聞かないといけません。そうして初めて全体との一致を確保できるのです。時には連続で3時間演奏することもあり、身体は疲れ、口は渇いた状態でも、顔は笑顔を保たなければなりません。それ以外でも、一回の外出はほとんど二日以上で、回数が重なると、仕事、金銭、家庭面でも大変な負担がかかるのです。多くのプロジェクトに参加している同修もおり、活動があるときには本当に満難を排除してやっと参加できるのです。様々な試練の下、強い使命感がなければ、続けることは不可能かもしれません。

 同修を励ますため、交流の時私はなるべくポジティブな話を多くするようにしていますが、一部の同修は私がよいことばかり言うのはみんなの向上につながらないという時もあります。しかし私と他の協調者の同修は、みなさんがこれだけ苦しい思いをしているのをみると、ネガティブな話をするのはどうしてもできず、そうしないと途中であきらめてしまう同修が現れるかもしれないからです。

 今は天国楽団がどこに行っても認められて歓迎されますが、最初の頃は私たちの隊列は整然としているとは言えない状態でした。後に度重なる交流を経て、意見をほぼ統一しました。自分の目をいつも他人に向け、他人に指図して他人を修正しているとき、全体から見れば、自分が最も全体を乱していることになっているのです。つまり、みんなが自分自身をしっかり律し、他人の不足を黙々と補うとき、全体の隊列は整然さを保つことができるのです。修煉も同じことではないでしょうか。一人一人の大法弟子が内に向かって探し、他人の不足を黙々と補うとき、全体の環境はきっとよりよくなるのではないでしょうか。

 天国楽団はいつも時間を切り詰めて使っています。移動する車内で行うことは二つだけです。学法と発正念なのです。煉功は活動が始まる前の時間を利用して行い、暇ができると発正念或いは[論語]や『洪吟』を暗誦します。

 同修が最後まで続けるように励ますため、私は自分が見た夢の話をしたことがあります。夢の中で数百人以上のトラペットが天安門広場で演奏しているのです。トランペットだけでこんなに多いのだから楽団全体は数千人はいるのかもしれない!眺めて見ると、本当に数千人の巨大な楽団ではありませんか。目を上げてみると、師父が天安門の上で指揮しているのでした。

 後に台湾で天国楽団の制服(古代服装)を製作することになりましたが、人数は確かに夢で見たように膨大でした。この夢を例にして、私は同修に言いました。どんなに難しくても必ず最後まで堅持しましょう、さもないと最後になって天国楽団が合流し総演奏を行うとき参加できなくなるかもしれないのです。

 目下、台湾天国楽団には五百人が在籍しています。天国楽団は「壮観さ」が要求されていますので、人数が少なくてはなりません。最低でも百人は確保しなければなりません。毎回の活動が私たちにとっては試練なのです。一定の人数以外にも、各声部のバランスも考慮しないといけません。時には人をそろえるのも一苦労なのです。

 二回ほど大きな試練がありました。一回目の試練は2007年1月、はじめて香港に行くことになったときのことでした。楽団は一つの全体であることを考慮して、個別の申し込みは認めないように決めていたので、多くのことを自分で処理しなくてはならない状況でした。申込用紙を作って同修に送りましたが、多くの老年同修は書き方や発信の仕方がわからないので、一つ一つ根気よく教える必要がありました。一度も出国したことのない人もおり、予想もしていなかったことを聞かれることもしばしばありました。一気にこんなに多くの問題が現れ、同修を勇気付けるためにも、我慢強く、しかも迅速に問題を解決しないといけませんでした。

 天国楽団が海外に行くときはいつも海外の同修から多くの荷物を頼まれます。一回目に香港に行くときも例外ではありませんでした。連絡事項が多く、ほとんどは初めて出くわす問題で、考えながら進行するといった状況でした。150人が香港に行くため、私ともう一人の同修は一ヶ月間ばたばたして、睡眠もほとんど取れませんでした。時には夜中の3時頃までことに追われ、やっと寝られると思ったら同修に煉功しようと言われ、眠りにつく「希望」も台無しになってしまうのでした。

 二回目は2007年10月の台湾の全国運動会の時でした。天国楽団が開幕式で選手団を引率して入場することになりましたが、司会者はしきりに天国楽団の高い素質を褒め称え、全国から集まった選手らも大法に対して良好な印象を持ちました。大会後、数千人の選手が迫害に反対し、人権聖火を支持する署名をしました。唯一の遺憾は、大会では横断幕を持つ団体が一つもなかったので、主催者側の意見を尊重して天国楽団も横断幕を持たなかったことです。

 2007年11月澎湖で行われた国際マラソン大会で、澎湖県の副県長も横断幕に意見がありました。その前の晩、交流の結果、翌日の大会では横断幕を持つことに決めました。妨害を防ぐため、その晩みんなは夜中の3時まで発正念を行い、その結果、翌日の大会で横断幕を広げたとき、主催者側はまるでそのことを忘れたかのようで、「法輪大法」の大きい四文字は堂々と群衆の目の前に現れたのでした。後に悟ったのですが、多くのことは実は大法弟子の心がもたらした結果であることを認識しました。今回の妨害も、実は前回横断幕を持てなかった心理障害から来たものでした。

(続く)

2008年12月25日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/12/15/191672.html