真に心を静め、学法しよう(二) 文/ハルピンの大法弟子・長安
(明慧日本)
二、数量と速度より学法の質を重視する
私たちが法を学ぶ目的は法に溶け込み、法に同化することなので、学法においては実際の効果の問題があります。師父は『転法輪』第七講「病気治療と気功治療」の中で歯を抜くことについて法を教えてくださいました。そして私たちに「道具だけで見てはならず、その実際の効果を見るべきです」と教えてくださいました。そのことから私たちは表面の形式より学法の質を重視することが分かるはずです。これは同じ時間に速くたくさんの法を学ぶのではなく(もちろん心が静かな時に速くたくさん学ぶのはよいことです)、学法する時、心身共に法に溶け込むと同時に、最大限に学んだ内容を理解し、最大限に心を静めて法を学べば、最もよい効果を得るのです。
「ですから、法を学ぶ際、形式に拘らず、必ず心を放下して読み、本当に学び、心ここにあらずとなってはいけません。注意力が分散してしまえば、無駄になります」(『米国フロリダ州での説法』)
「法を学ぶ目的は皆さんを分からせることであり、何かが分かることが第一義のものです。法を読んでいるとき、自分が読んでいるこの行の意味が分からなければならず、少なくとも、表面の意味が分からなければなりません。読んですぐ忘れるということですが、気にしないでください。それは大丈夫です。ひたすら読んでください。自分が何を読んでいるかも分からず、ただこのように読んで、読んで、口は朗読しており、目は追っていますが、心がここにあらずではいけません。それなら、修煉の目的に達することができません」(『カナダ法会での説法』)。
ですから、私たちは法を学ぶ時、まず主元神の高度の集中と冷静であることが必要で、心がここになくてはなりません。見た文字は全部明明白白で、はっきりと頭の中に反映しなければなりません。そして文字の表面の意味を必ずはっきりと理解しなければなりません。これが心を静めて法を学ぶ前提です。心を静かにして学法できるようになってこそ、師父の法身は文字の奥にある大法の内包を啓示してくださるのです。例え一つの問題、ひいては一段落しか学ばなくても、無駄ではなく収穫があるのです。一方同じ時間で速く、たくさん読んでも、頭の中に読んだ内容に何の反応もなければ、学法といっても、ただ時間を無駄にするだけなのです。と言う訳で、毎日何時間学んだか、どのぐらい学んだかを重んじるより、改めて自分に「学法する時、心が静かで実際の効果を得ましたか? 法に溶け込みましたか?」と聞くべきです。
例をあげましょう。もし1人の大法弟子が1時間最初から最後まで、心を静かに学法することができれば、1時間の実際の効果を得るのです。一方、もし大法弟子が2時間をかけ、法を学びますが、半分の時間は心静かに法を学び、後の半分の時間は心ここにあらずで、居眠りをしたりしたら、2時間をかけても、ただ1時間の実際の効果しかないのです。これから見れば1時間と2時間が同じなのです。
私は法を学ぶ時、主に大法を通読します。法を読む時はいつもスピードは緩やかに、そして、静かで和やかな気分で通読するのです。数量とスピードより質と実際の効果を重んじています。学法する時、初めから終りまで、主意識を強くはっきりとさせ、絶対に一字一句が漏れないようにするのです。出掛ける時にも乗車する時にも、真相を伝えない時には、法を暗誦する形で法を学ぶのです。法を暗誦する時、終始本当の自我(主意識)でしっかりと自分の大脳をコントロールし、心身はすべて暗誦する一句毎に法に溶け込み、 周りの環境は特別に賑やかでないかぎり、このように学法すれば静かな環境の中で静かに通読するのと同じなのです。
心を静めて学法する過程において、大法は異なる次元にある内包を理解させると同時に、師父は、私が修煉する過程にある深刻な問題を適切な機会に目覚めさせ、正してくださいます。
2003年の初め頃『2003年旧正月十五日米国西部法会での説法』を学んだ時、師父は私が以前旧勢力の変異した按排を認めた「認識」を正してくださいました。その時、私が大法を実証することに邪魔が入ってきました。結局は成功しましたが、自我に執着したため、自我を実証する強い執着心の下で、法からずれた理解が出てしまいました。その時 私は「私の修煉状態が良いので、邪悪を震え上がらせる力があり、邪悪は私が恐いので、私が法を実証する時に邪魔しに来た」と思いました。旧勢力を認めた思想があったので隙に乗じられ、連行されるところでした。師父の加護と手助けで、正念で脱走しました。しかしその後また、脱走できた成功感と自我を誇張する状態が出ました。同修はこの深刻な問題を私に教えてくれましたが、全然聞き入れませんでした。
その後『2003年旧正月十五日米国西部法会での説法』を学んだ時、師父が私を目覚めさせてくださり、私は豁然として悟り、心から旧勢力の変異した按排を認め、ひどく法から外れていたことに気づきました。実は正しい考えは「修煉状態がいいので、邪悪を震え上がらせる力があり、邪悪は怖いが、邪魔に来ることができず、大法弟子の正念により、取り除かれるべきだ」と思ったのです。師父がおっしゃった「片足を既に踏み外した人がおり」は私を指していたのです。
師父がちょうど良い時に私を目覚めさせてくださらなかったら、将来はどうなるか予測を許さなかったのです。これは数年前のことですが、今も肝に銘じています。心を静めて学法をし、理性的で知恵を持ち、頭をはっきりさせ、全力で師父が教えられた三つのことをよく行ってこそ、恩師の壮大な御恩に背くことはがないのです。
2005年以前、私は悪党邪霊(中共悪党も含めている)と魔の首魁(江沢民)について、「彼らの生命は生まれた時からもう、大法を迫害する悪質な連中になるように定められ、彼らは救いようがない、彼らは毒薬であるので、毒があり、邪悪であり、決して、救い出されるチャンスはない」と思っていました。しかし、2005年上半期に『米国西部国際法会での説法』と『2005年マンハッタン国際法会での説法』を学んだ時、師父が私の正しくない認識を改めてくださいました。
師父は『米国西部国際法会での説法』の中で「もちろん、法を正す中で、悪党が法輪功を迫害しなければ、たいしたことはありません。なぜならば、はっきりと認識できない多くの文化と理念は法が正される中で、おのずと正に帰するのです。この面において修煉者が何かをする必要もなく、その党の邪霊も正されることによって救われます」と言われました。
『2005年マンハッタン国際法会での説法』の中で「言い換えれば、中共が悪事を働き尽くし、邪悪な党文化を作り上げ、数え切れないほどの人間とほかの生命を殺したにもかかわらず、当初中共悪党を根絶するつもりはなかったのです。なぜならば、法を正す中で、全ての正しくないものを全部正すことができ、修煉者が直接このことに関わる必要も、このことで修煉する必要もありません。法を正す中で本質から正すことができます。つまり、表面から触る必要は全くありません。悪党の邪霊を含めて、全部正し、良い生命にすることができます」とおっしゃいました。
私の認識は変わりました。旧勢力は悪党邪霊と江沢民が大法を迫害することを按排しましたが、大法を迫害することを選ばない限り、大法は彼らを良い生命に規正することができるのです。師父は以前の説法の中でも、正法はすべての生命の過去の善悪を見ず、正法に対する態度だけを見る(個人認識、元の話ではない)と何度もおっしゃいましたが、心を静めて法を学ぶことが足りなかったので、今になって、やっと分かるようになりました。師父はまた慈悲深く、私が法から外れた認識を正してくださったのです。
2007年、『オーストラリアの学習者に法を説く』のビデオを再度見た時、師父は大法弟子に普遍的に存在する幾多の深刻な問題に対し、慈悲なる啓示と説法される時の笑顔と声が、私の心性のミクロまで強く揺り動かしました。私は心から認識できるようになりました。同修達と一緒にいる時、いつも他人を責め、刺激していました。時には同修達の協力に影響し、矛盾と隔たりがでることもありました。これらの表現はもう一般の執着心と自分を実証する問題ではなく、旧宇宙の生命のように強い私(し)と自我のために、何をしようとしても、最初に考えるのは自分の生命の要素と特徴だけなのです。それは私のところに集中的に現れました。大法弟子も法を得る前は旧宇宙の生命だったのです。私達は法を実証する時、大法により、自分の中にある旧宇宙の利己の要素を正して初めて、大法により、新宇宙の神に同化することができるのです。
長期にわたり、自己のことだけを考える思想と、他人だけを変えさせ、自分を変えたくない考え方は旧宇宙の生命の要素であり、自分の向上と衆生を救い出すことに妨害と影響をもたらしただけでなく、大法弟子の間の協力と向上にも影響しました。違う角度から考えれば、私の上述したあらゆる表現は、旧宇宙の生命、旧勢力の残った要素(皆異なる次元の生命)及び乱神と黒い手と卑しい鬼達に見られ、彼らは私が法を得たにも関わらず、彼らと同じであると思うのかもしれない、というのは、私はまだ旧宇宙の私から離脱していないからなのです。
私の心性にこのような変化があったので、師父が私に長い間、異なる空間に存在した邪魔されていた問題を解決してくださったのです。具体的な表れとしては、私が説法のビデオを見ていた時、体が止められたようになり、そして、頭の上に噴水(噴水は頭と同じ太さ)のように勢いよく外に変異した廃棄物を噴き出し、それは10分近くも続いたのです。心を静めて学法する時、いつも美妙で殊勝な状態が出ることがありましたが、こんなに明らかに師父が私のために体を浄化してくださったことを実感したのは、修煉して以来初めてでした。
私は修煉し始めてから終始心を静めて学法する状態と実際の効果を重んじてきたので、長い時期、私の学法の状態はずっととてもよかったのです。学法する時、100%静かになれたのです。学ぶほど終わりたくなくなり、学ぶほど頭がはっきりしてきたのです。いつでも大法で自分の心性と行為を規正することができるので、数年来、本地区の邪悪が何度も大法弟子に気が狂ったかのように迫害した時、私は師父の加護の下で安全だったのです。心を静めて学法する過程において、大法の無限な内包はいつも、私を目覚めさせ、私の法に対する理解と昇華は、日進月歩であり、毎日新しくなり、ひいては時間ごとに新しくなったのです。法に対する理解が昇華するたびに、心を静めて学法する状態もそれに従い、昇華し、突破しました。そして、煉功と発正念をする時、静になり、定になる状態もそれに従い、昇華し、突破するのです。このように心身が共に大法の広く、無限な内包に溶け込む感覚は、本当に言葉では言い表せません。
(続く)
2008年12月27日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/12/5/191133.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
|
|