「矛盾」の中で内に向けて探すことと修煉を高めることとの関係を正す(一)
文/黒龍江省の大法弟子 怡然
(明慧日本)風雨の中で11年近く歩んで来た修煉の道を思い返し、私は古い修煉者であると自覚しています。しかし、修煉の中ですべての人心の「魔」を取り除く時に、いつも大きくつまずいて転び、人心の葛藤と矛盾の中でようやくそれを捨てることができました。いつも修煉を強いられているようでは、自発的に法に同化することはできません。その原因を探ってみると、「矛盾」の中できちんと内に向けて探すことと修煉を高めることの関係を正しく対処することができず、何が観念なのか、何が修煉なのかについて根本的に理解しておらず、修煉の中の「苦難」に正しく対処していなかったがために生じたのであると分かりました。『オーストラリアの学習者に法を説く』の映像の中で、師父の慈悲、待望と深い思いやりの込められた言葉を思うと、いつも恥ずかしくなり、師父が自分を救い済度するときに生じた艱難、及び自分がなかなか悟らないことに悔いの涙を流しました。
常人の中で、わたしは芸術の商売に従事しており、唯美主義で、ロマンチックで、情義を重んじる理想主義者です。予期しない功名と利益を獲得することについてはあまり気にしていません。しかし、生命の精神的次元の価値への追求について、大変執着しています。まさに、「甚だしいものは、偽りの心理のために命を投げ出しても変えることができませんが」(『精進要旨』「誰のために存在するのか」)で言われる通りです。
このような観念は非常に根深いものでした。物欲が強い世の中で、高尚で完璧なことを追求することは、童話の世界に生活しているかのようでした。しかし、理想と現実がぶつかる中で、心に受けた傷害ははかりしれません。生命が茫然として助からないと感じた時、幸いなことに私は大法に出会うことができました。
私は、真理や返本帰真の実践と成就を生命の究極の意義として求めています。しかし、腹の中では「すばらしい人生」を実現するために、人と人との間の仁愛と傷つけられない人生を理想として努力しています。私はこのような根本的な執着を抱いて大法の修煉の道を歩んでいたのです。まさしく『精進要旨』の「時間との対話」の中で、旧宇宙の神が、 「神:今、このような人々について言うと、彼らは人生の目標を見つけることができず、法を学びに来たのですが、このようなどうにも変えたくない認識を抱いているのです」と言っているように、これらの旧勢力は私たちが入門した時の根本的な執着を口実にして、私の「個人修煉」の時期と「正法修煉」の時期に多くの難関を按配し、それらの法を破壊する目的を達成しようとしているのです。
私はこの難関の中で必死に頑張り、包囲を突破しています。自分の根本的な執着およびそれに関連する人心を見つけ出してから、複雑で錯綜する表面の現象を前にしてに、ますます実質的なものがはっきり見えるようになりました。そうすることによって、落ち着いて自分を見つめなおし、そして自分をコントロールすることになりました。しかし、表面になればなるほど、その根本的なものはもっと激しく現れてきます。最近、ある同修との衝突の中で、私はそれに対してさらに深く認識することができました。つまり、旧宇宙は正法に参与するたくさんの生命が、今日の法を正す中で師父が法を正すことを手助けしているように見えながら、実際は師父が法を正すことに頼って、命をかけて自分の残したいものを残そうとしているのです。大法の修煉の中で執着心を抱いて放さないのも同じことです。
私は、常人の仕事の中で、変異された美の判断基準が身についてしまったため、世間の相生相克の物事、例えば善悪、美と醜、善し悪しは、私の考えの中ではっきりとしています。私は醜さを拒絶し、私が美しいと認識する物事の中にある種の美を感じ取ることができます。かつその中に陶酔しがちです。逆に、私からして醜いと思うものは、私はそれを一切排除し、気持ちが悪くなります。私のような性格では、修煉の中で個人の修煉が良くできている同修との間は、互いに良く協調することができますが、いまだに私の心、嫉妬心などの人心のある同修といると、私は思わず相手を排除したくなり、相手を受け入れなくなります。これらの人々の人心が、私のこの変異した観念に触れたとき、私は最初にまずがまんし、回避するようにりますが、これ以上がまんできなくなる限界までくると、私はただちに怒ってしまうのです。
(つづく)
2009年1月6日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/12/29/192413p.html)
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