■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/01/10/mh125996.html 



神韻は神の賜物 人の心を洗い流す(二)
−チケット販売で考えを正す

三、中心を捉えて大通りを歩み、大陸人、政界要人、経済界、芸術文化等の人々を救い済度

その前の2週間わたしは法を暗唱しました。「これに対して、われわれはねらいを定めて、本当にその心を指摘し、その心を取り除くわけですから、修煉の成果を得ることがきわめて速いのです」(『轉法輪』)のところまで暗唱すると、わたしの心はぱっと開き、いくつかのものが分かってきました。すなわち神韻はただの公演のではなく、人を救い済度する一つの形式で、もし私たちの考えを公演自身に置いて、常人が商品を広めて商売をするようにするのであれば、入場券の売れ行きは良くありません。

私たちが全身全霊で人を救い済度することこそ正しい道

人を救い済度する主な対象は、まずは大陸人で、特に大陸から出て来て間もない人です。彼らは長期にわたって党文化の下で生活し、中国共産党に深く毒害されているので、彼らを救い済度することは党文化を解体することになるのです。彼らは真相が分かることによって大衆の中のマスコミになり、彼らが他人に伝えるのです。ある者は頻繁に大陸を行き来しているので、彼らは真相を大陸に持ち帰るのです。

その次は政界要人と経済界です。多くの国家の首脳と官吏および大きな財団のマネージャーは、1999年に中国共産党が法輪功を迫害し始めてから黙りっ放しです。かれらは中国共産党から利益を得ているので、明確に態度を表明しません。これらの政界要人の態度はその国と現地の民衆によくない影響を与えています。多くの大きな財団のマネージャーは彼らの前世でお金を大法に使うと誓いを立てましたが、三界に入るとその中で迷ってしまいました。そのため必ず彼らに真相を伝えて、彼らを目覚めさせ、彼らに正しい選択をさせるのです。

芸術文化界の人々は、中国共産党が文芸の形式を利用して人を洗脳し、人の観念を制御して、文芸で伝統文化を粉砕しているため、芸術文化界の人々は深く毒害を受けています。神韻は本当の伝統文化を復興しており、芸術文化界の人々を正し、彼らが真相を理解することによって、社会の芸術文化に正しい世論の動向を生むことができるのです。

以上の各領域の人々には、ただ神韻の公演活動期間中だけ彼らに真相を伝えるのではなく、いかなる時にもすべて彼らに対して真相を伝えることを緩めてはならないのです。これは大法弟子の責務で、普段しっかりと行なっていれば、神韻の公演が始まると自然に良い結果が現れてくるのです。

四、周囲の同修を呼び覚ます

師父は『アジア太平洋地区学習者会議での説法』の中で、「 師父である私は一人の弟子をも見捨てることができず、皆さんに教えますが、責任者として、一人の弟子をも見捨ててはいけません。(拍手) あなたと仲良くしている学習者ならば、一緒にいますが、自分の言うことを聞かなければ排斥してしまうようではいけません。師父である私はこのような責任者は要りません。皆さんが一緒になり協調しあい、絶えず法に基づいて向上することができるようにし、正しい環境を形成すべきです。大法弟子は真相をはっきりと伝え、衆生を救い済度し、迫害を抑制するなど法を実証することが良く行われるようにすべきです」と説かれました。

一部の同修はいつも集団で法を学ぶことに参加せず、あるいはいつも人に会えないのです。ある同修は、彼らは自分たちと関係ないと思っていますが、事実上彼らも私たち全体の中の一員で、全体の一部なのです。修煉者のなかで常人の一面が優位に立った時、誤った選択をしやすいのです。私たちは彼らとよく交流し、彼らにより関心を持ち、彼らによく真相を伝え、彼らの心の中の結び目を解くように手助けをすべきです。

現在の大法弟子は個人修煉ではなく、正法修煉であるため、個人の円満成就を目的としないのです。周囲の同修を呼び覚ますことは私たちがすべきことであり、よけいなことではないのです。これは法を正すことの需要を円融するものなのです。なぜかと言えば、法を正す時期の大法弟子は全体の上で師父が法を正し衆生を救い済度する手助けを成し遂げるべきだからです。もしある人がついて行けないのなら、私たちは自分の果たすべき責任を果たしていないことになり、もしある人の時間が荒れ果て、意気消沈の態度で真相を伝えることの修煉に直面するならば、この人は自分を壊しているのです。このような同修を見かけたら助けの手を伸ばすべきです。もし私たちは このような同修に正しく対応することができず、このような現象が割に多くなるとしたら、法を正す進展を引っ張ることになるのです。法を正すことはすべてのゆがみを正すことで、同修が法を正す進展について行くことができず、まっすぐ歩むことができないのであれば、私たちはこれらを是正すべきで、私たちは永遠に他の人に配慮すべきなのです。

五、協調責任者を「神格化」してはならない

私たちの修めることのできた部分は、師父はいずれも密封して隔離されるので、残ったのはすべて修めていない部分です。人身が修煉しているので、事をする中で種々の人心が表れ、協調責任者も人身を修めているのです。ある同修はまるで協調責任者が修めて基準まで達成すれば、ようやく協力するかのようで、実はこれはまさしく外に求めており、外を見ているのです。実際上、協調責任者はただ橋を架けるだけであって、本当に役に立つのは私たちすべての大法弟子なのです。私たちは協調責任者の身に用いる力を自分の身に用いるべきで、欠陥があれば次回しっかりとやり直し、どこか補充の需要があればどこまでも円融して行くのです。神は人心だけを見ており、自分がこの心でもって一生懸命頑張ることで、環境はようやく改善するのです。

六、自分を堅持し強調する心を修める

ある同修は自分が何々をしたと言っています。例えば、わたしは何枚の入場券を売ったとか、わたしはどんな文章を書いたとか、これらはすべて「我」なのです。これはまさに「我」を取り除くよい機会なのです。「修は己にありて、功は師にあり」(『轉法輪』)、私たちの行ったすべては師父が手伝ってくださったもので、私たちが法に同化すれば、法の威力は現れ出るのです。修煉しているのは私たちで、威徳は大法が創ったものなのです。

私たちが神韻を行うことには近道はなく、いかなる外在する方法と形式はすべてむだなので、同時に三つの事をしっかりとやり遂げて、ようやく本当に高まることができ、従って神韻を広めていく時にも、法を学ぶことと正念を発することを怠ってはならないと深く感じました。師父は『アジア太平洋地区学習者会議での説法』の中で、「もし大法の仕事で忙しくなってもいないのに、一緒に法を実証し真相を伝える活動、または一緒に法を勉強することに参加しなければ、正しくはありません。皆で一緒に法を勉強することは私が皆さんのために切り開いた環境であり、皆さんのために残した形式です。やはりこのようにすべきだと思います。なぜならば、これは実践してきたことであり、このような修煉が学習者を最も早く向上させることができるからです」と説かれました。

 私たちが本当に師父の創ってくださった集団で法を学ぶことに根をおろす事ができれば、最も速く昇華し、神韻を行う中で最大の作用を発揮することができるのです。

(おわり)


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/12/28/192418.html

明慧ネット:jp.minghui.org