■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/01/20/mh231471.html 



10年間の修煉体験談(一)

(明慧日本)

  一、法を学ぶ

  法を学び始めた時、ただこの本がとても良いと思って毎日読むようにしていましたが、しかし小坊主のように、口だけで内実はありませんでした。振り返ってみると、その数年は毎日堅持して法を学んでいましたが、しかし読み急いでいたため理解は浅く、効果がなく、多くの貴重な時間を浪費してしまいました。同修は私を見て、法を学ぶ時はスピードではなく、読んで分かることが肝要であると注意してくれました。

  それから、法を学ぶ時に自分の心が静まり、恭しい心を持ち、姿勢を正しくして腰掛ける必要があると分かりました。法を学ぶことは、学生が学んだものをきちんと頭に入れることと同じように、法をきちんと心の中に入れることによって、ようやく法を理解し、ようやく本当に法を掌握し、法を得ることができるのです。今、私は法を学ぶ時、一字一字気持ちを落ち着けて冷静な態度で読んでいくと、速度は落ちますが、しかし効果はとても良いのです。

  大法は天の書であり、宇宙の根本であるため、法を学ぶ時に必ず謙虚な態度をもち、くれぐれも自分が一目で分かり、1回読んだだけで理解したと錯覚してはなりません。このような独りよがりの観念は修煉者が法を得る障害の根源の一つです。恭しく一字一字をきめ細かく心を込めて読み、心を込めて体得し、極めて優れた法理が修煉者の前にようやく現れるのす。法を学ぶことと法を得る間の距離は、私たちの真心、謙虚および恒心で着実に行うことによって、初めて目標に達することが可能となるのです。

  個人として、法を学ぶことは黄金を拾うようなもので、修煉の中で向上したいならば、必ず根気よく法を学び続けなければなりません。黄金を拾うときにさえ頭を下げて腰を屈めない人は、どうして「金持ち」になれるでしょうか? 一部の同修が法を学ぶ上で精進しないのを見て、私は彼らのためにとても焦っています。時に私は1日8時間以上法を学んで、夜ベッドに横たわる時、本当に疲れ果てることがあります。心を込めて法を学ぶ時、苦しみ疲れることもありますが、とても価値のあることで、法を1篇学ぶと、修煉が一歩前に進むのです。

  二、病業

  私はかつて3年あまり「皮膚炎」に苦しみました。炎症を起こした皮膚は毎日膿や血が流れ、いつもかゆくて、夜中に起きて血だるまになるまで掻いていました。その長い千日あまりの中で、他の人にどのように笑われても、診察するようなだめられても、私はただ法を学び煉功するだけで、自分もいつ良くなるのか分かりませんでした。しかし、私は自分がしっかりと行ない、他のことを気にせずにいました。

  私は病業で亡くなった1人の女性の同修を偲んでいます。ある日、彼女を見舞いに行く途中、私は、「彼女が良く修煉しなければ、彼女の命を取る」と言う声が聞こえました。彼女は真相を伝える上で私よりずっと良くできていましたが、ただ実修することができなかっただけかもしれず、早く逝ってしまい、とても惜しいと思っています。修煉は学生の学習のようなものではないでしょうか。学習の目的は知識を掌握し、問題を解決することで、決して丸暗記することで完成するのではなく、学んだ知識で出会った問題を解決することができなければ、どうして良い成績を残す事ができましょうか。自分の修煉をしっかりと行うことは全ての基礎であり、もしみんなが全て心を静めて法を学び、法理に対する認識をもう少しはっきりさせ、自分の心性の上でもう少し厳しくできるならば、どのぐらい損害を免れることができるでしょうか。

  三、法を実証する

  私はかつて二度、法を実証するために北京に行き、列車の中で警官に不法に連行されました。2回目の時には私1人だけで、その時に私は泣き出しました。常人は修煉者を理解することはあり得ず、境地の差が大きすぎたからです。

  その時は同修と交流した後に出発しましたが、同修たちはみな、「大丈夫、行っていらっしゃい」と私を励まし、自分も情況は良好だと感じていたのに、どうしてまた迫害を受けたのでしょうか。私は師父の経文『路』を読み、全ての人の修煉の道はそれぞれ異なっていて、自分の道を歩まなければならないと分かりました。私が北京へ行った時は法理がはっきりしておらず、そのため帰って来て、家の人は、「あなたはどうして子供を放っておいて、自分で好きなときに行くのですか」と詰問してきました。私ははっきり答えることができませんでした。私は当時、自主的に北京へ行ったのではなく、他の人が励まし続けた中で行ったので、決して自分が悟って行ったのではありませんでした。また、私は当時次のように願をかけていました。「私と一緒に行く同修は以前迫害を受けたことがあり、もし今度危険に遭うならば、私はきっと勇敢に立ち向かって、彼女のために耐える」。結局その同修は用があって行かれなくなったため、その代わりに私が迫害を受けました。

  このような経験はその他の同修の参考に値します。1人が迫害を受けることはいくつかの家族ないしいくつかの企業に影響を及ぼし、影響が大きすぎるので、私たちは決して一時的な衝動により行動するのではなく、周到に熟慮し、全面的なことを考慮して、法のために責任を負い、家庭と社会のためにも責任を負わなければなりません。

  また、私たちは同修と交流する時も功を急がないでほしいのです。同修が高まることを助けることは良いことですが、しかし必ず法理の上で交流し、同修に自分の責任を認識させ、同修に何をしっかりと行うことができるかの分析を手助けしなければなりません。修煉において、もし結論をただ同修に押し付けて、同修に何かをするように命令し指示するのであれば、同修を手伝ったどころか、深く同修を害することになるのです。

 (つづく)

  2009年1月20日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/1/9/193218.html

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