学生への警官の強姦事件を暴き、劉範欽さんは6年の監禁を強いられる
(明慧日本)重慶市北碚区光学計器工場に勤める法輪功修煉者・劉範欽さん(60歳女性)は、重慶大学の大学院生・魏星艶さんが強姦された事件を暴きだしたため、2003年6月に当局の警察に連行、監禁されて、さらに警察・検察・裁判所に拷問されて不具になり、自力で生活できなくなった。その後さらに9年の刑を下されて、重慶女子刑務所に監禁された。劉範欽さんは獄中で残酷に苦しめられ、体調がとても悪く安心できない状態だと言う。
劉範欽さんはかつて従業員に慕われる良い上司であった。以前、多種の疾病を患っていたが、1993年より法輪大法を修煉し始めてから心身ともに受益した。1999年7月20日から中国共産党が法輪功に対する迫害を全面開始してから、劉範欽さんは何度も深刻な迫害を受けて、不法に拘禁、労働教養処分、刑罰などを強いられ、殆どの時間を獄中で過ごしていた。
1999年、劉範欽さんは上京して陳情に行った際、連行、拘禁された。その後正念を持って魔窟を脱出できた。2000年に再び現地の警察に連行されて北碚区留置場に監禁され、さらに重慶市毛家山労働教養所に移送されて1年半監禁された。2001年、出獄間もなく再度警察と北碚区政府の関連役人に洗脳班まで連行された。劉さんは断固抗議して、9日続けて絶食して洗脳班を脱出した。家に帰った後、監視、尾行、掻き乱しをされたため、劉さんは家に帰れず、流浪生活をした。
2003年6月、劉範欽さんは重慶大学の女子大学院生で法輪功修煉者の魏星艶さんが悪辣な警官に強姦された事件を暴きだしたため、重慶市大渡口区警察に連行されて、不法に大渡口区留置場に拘禁された。その間、各種の残虐な拷問を嘗め尽くした。めった打ち、手錠をはめる、つるしあげ、ひざまずかせる、灌食、引き延ばしなど。大渡口区の公安局長の陳波は自ら主任の華××と数人の悪辣な警官を連れて、劉範欽さんを車でもう一つの留置場に移送し特別な部屋に閉じ込めた。この中で劉さんは窓の外側の柵に手錠をはめられ、つま先が少しだけ地面について、腰が反っており、さらに30〜40時間大小便をさせず、眠ることもさせられなかった。目を閉じたらすぐに悪人らに顔面を殴られたり蹴られたりされた。このように長時間手錠をはめられたままで、引っ張られ、めった打ちされて、劉範欽さんは両腕が脱臼し、骨がずれて、両腕が麻痺してしまった。何度も気が遠くなって、悪人に冷たい水をかけられ目が覚めたあと、繰り返し苦しめられた。
劉範欽さんの両腕は脱臼して、動かすことができないのに、警察が治療をさせず、彼女を単独で一部屋へ閉じ込めて世話をしなかった。劉範欽さんの両腕は動かないため、横たわったら起きられず、飲食と大小便ともできなくなった。残忍悲道な警察はできるだけ早く彼女を刑務所に投獄しようと、警察・検察・裁判所が結託して9年の懲役を下した。しかし刑務所は断ったので、仕方なくやっと劉さんを重慶整骨科病院、南西病院などに連れて治療をした。しかし怪我をしてから長い間治療しなかった為、骨はすでに復元できなくなった。警察は病院と結託して偽の書類を作り、2004年6月20日に劉さんを重慶女子刑務所に移送して迫害を続けた。骨の関節が2センチほどずれた為、両腕が完全に使えなくなり、刑務所に拒否された。2004年6月から12月まで、警察は3回ほど劉範欽さんを重慶女子刑務所へ移送し、3回ともに同じ障害で拒否され、大渡口留置場へ戻した。結局邪悪そのものの「610弁公室」のプレッシャーの下で、重慶女子刑務所は2005年の夏に劉範欽さんを投獄した。
刑務所の中で、劉範欽さんは生活のすべてが自立できず、刑務所は家族に面会をさせず、彼女に「三書」を書くことを強いた。彼女は師父と大法を堅持して、邪悪な按配を承知しないでいた。悪人らは受刑者を使って劉さんに付きまとい、気に入らなければ殴ったり蹴ったりした。悪辣な警察らは各種の手段を使い尽くして「転向」させようとしたが、脅したりすかしたりしても果たせなかった。
劉範欽さんは魔窟の中で、苦しい2000日あまりの日々を過ごし、今なお続いている。
北碚区の法輪功修煉者はこの消息を知り、家族と協力しあって、はやく獄中の法輪功修煉者を救援するよう期待している。
2009年1月21日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/1/21/193893.html)
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