修煉の中で 絶えず成熟する(二)
(明慧日本)
三、文章の中から自我を見つけて捨てる
人間の幾千万年来出来上がった観念、特に根強い利己的な「私」の念は影のように付きまとい、努力してそれを探し、掘り出さなければ永遠に発見することができません。時にはそれは美しい衣装のように魅惑し、感心させることもあります。
常人社会の中で私の文章力がよい方で、誇りに思っていました。私が大法を知った時に、すぐに自分の文章力など取るに足りないもので価値もないと思い、筆を置きました。
ずっと2003年まで獄中にいた時、真相を説明するために文章を書くことが必要になり、私はやっと一篇を書きました。ある同修は、貴女は能力があるのだから書いた方がいい、なぜ書かないの? と言ってくれました。なぜ自分が書かなかったのか、それが取るに足りない技だからなのか? あるいは人に下手だと言われ、それほどの美と神聖さに欠けることを恐れているのか? 表面では良いことに見え、謙虚なようですが根本的には人に下手だと言われるのを恐れていたのです。文章を書くことは天からの授かりもので、大法のためにあったものです。それも私の義務であるべきで、先史の広大な誓約なのです。
実際には、書くこと自体は皆さんと交流するだけでなく、多くは書いた中で、自分の問題を発見しました。心は言葉に表れ、文章を書くこと自体は自分との交流でもあり、特に1人だけでいるときにいつも私は自分がどのような問題に陥り、あるいはどのような情緒に左右されて抑えられないのか、自分の当時のすべてを意識流(一存一念をそのまま記録)のように書きだし、少しずつ大法に照らして原因をさがし、その裏に存在している執着を探し出しました。毎回このようにすれば早く冷静になることができます。自分がこうする時に執着に陥った私をじっくり見れば一目瞭然です。同修がほかの同修の不足を見るようにはっきりわかりました。
文章を書くか書かないかが問題の根本ではないかもしれません。このことにより私は自分の問題が分かりました。それは自己を実証し、自惚れることです。これを皮切りにして、他の事をする時に、いつも自分の方法が正しい、自分のどんな小さい経験でも、わくわくして自分の方法で進んでやりたがり、他人はまだまだ不足していると思ってしまいます。その時に師父の説法を思い出しました、「ある神がある方法を提示した時、彼らはそれをすぐに否定し、自分の方法を示し、自分の方法が最も良いと言うのではありません。彼らは他の神から出された方法の最終結果がどのようなものなのかをまず見るのです。道が異なり、一人一人の道も異なっており、生命が法から悟った理は皆それぞれ違っていますが、結果は同じかもしれません。ですから、神たちはまず結果を見るのです。到達する結果を見て、本当に達成したいところまで達成することができれば、それに同意します。神はこのように考えています。更に、足りない所があれば、無条件で黙々とそれを補い、圓満させます。神はこのようにして問題に対処しています」(『2002年米国フィラデルフィア法会での説法』)。
この道理を分かってから、何か発生した時に更に自分が上手くできるかどうか、或いは自分の方法が如何によいかに執着せず、何を自分がするべきで、するべきであればそれをします。真相説明をする時もまだ自分がどうかを考えず、口実(真相説明をしない)もあまりなくなりました。
実はこの問題も2000年の『李洪志先生の北アメリカ五大湖地区交流会における説法』の中ですでに明確におっしゃったのです。ただ自分がいつも照らし合わせることができなかったのです。
四、修煉の中で信念を固める
風雨の中ここまで辿り着きましたが、大法に対して私は疑ったことはありません。しかし、疑わないだけではまだまだ足りず、真の信念とは、知って悟り、従うことです。
個人の修煉か衆生を済度することかに関わらず、みてとても難しくて乗り越えられないのですが、正念を持って対処すれば本当に柳暗花明又一村のように変わってくるのです。
まだ最初の修煉のころを覚えています、どこかが具合悪くなったとしても心はとても安心して、それは自分の数世の累積した業力を消しており、良いことだと思います。トラブルに遭ったら心に絶えず自分に、私は修煉者でありこれは良いことだ、これは自分が向上するよい機会ではないかと思います。こうすると、トラブルによって起こった悩み、苛立ち、怒り、無念或いは鬱憤はすべて飛んでしまいます。
しかし、ここ数年来の迫害の中に、安逸心を放任したため、どこかが具合が悪いから休憩したいという心が起きて、それを放っておくならば、魔性がずっと存在し、潜在意識の中に生活の苦を自分に対する不公平だと思ってしまい、人のせいにするのです。いつもこの時に私は自分が駄目だ、なぜ修煉すればするほどどんどんひどくなったのか? と思ってしまいます。冷静に考えたら実は自分の信念が足りず、心が正しくなく、いつも自分が修煉者としての自覚を持たなければ、トラブルに遭った時に、動くのはまず人心なのです。
修煉について法理がすでに明らかにされ、まだ悟らないとわれわれ自身が人心を用いてしまい、信念が弱くなるのです。少なくとも、今まで辿り着いて、もし私がいつもトラブルに遭った時に、「私は修煉者です」あるいは「これはよいことです」、「私は超常的な理で自分を律しなければならない」と自分に要求すれば、きっと今の自分より良くできると思います。そして、自分が法を実証し、真相説明をする事が比較的順調に進んだ場合は、すべて自分が正々堂々とした修煉者である自覚を持っている時なのです。
不足のところはご慈悲に指摘してください。
2009年2月5日
(中国語:http://big5.minghui.org/mh/articles/2009/1/26/194241.html)
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