ある日、同修を訪問したとき
(明慧日本)師父はかつて説法の中で人に対する思想業の妨害を講じられました。実は人が後天で形成した一切の観念はすべて自分そのものではなく、しかし、往々にして私たちはこれらの観念や思想が自分であるかどうかを分別せずに、多くの場合、その自分でない思想が良くないことを知っていながらも、無意識のうちに操られてコントロールされてしまうのです。
恐れる心により、私は邪悪に監視されているような仮想をもたらして、心の中で、「同修の家へ法を学びに行くことをやめよう。私はしっかりとしなければならない」と思っていました。しかし法に照らしてみれば、自分が捕えられて迫害されることを恐れているのが本音で、法に則っているのではないのです。
結局自分の思想と戦うことを通して、行くことに決めましたが、行ったのがとても遅かったのは、その思想に影響されて戦っていたからです。こうした中で、途中でやめようとしたことが二度ありました。その時は少しだけ正念があり、その恐れる心に私は制御されるかもしれないが、それを容認してはならないと思いました。この一念は直ちに10件以上の旧勢力が按排する迫害と逮捕に及んでしまったのです。このすべては私の生命のすべての細胞を強烈に制御して、細胞まで恐れており、まるでそのすべてが必然であったかのようでした。
その一歩を踏み出す苦難は、言葉でいうほど容易ではありません。同修の家へ行くことだけでなく、1人の大法弟子としてするべき事をしようとした時に、恐れる心によりどれだけの妨害が出て来るのでしょうか。個人のために、苦しむことを恐れ、死ぬのが怖く、大法を離れるのを恐れ、まるで地獄にでも入るかのように恐れました。私は、自分の生命自体は地獄の最も深いところにいると思っています。私はどうして見殺しにするのか、他人からのちょっとした厭味、皮肉、脅し等で、直ちに真相を伝えて人を救い済度する意志が動揺し、苦しみを感じて、二度とこのような人と接しないと思うのです。
その障害は自身ではなく、ちょうど自分の取り除くべきものだと知りながら、その時、「あなたはしっかりして、これ以上迫害を容認しないでください」という強大な観念から口実を作り出すのです。覆い隠すことで、このように覆い隠すと、表面はすぐつるつるしてきて、多くの場合、このように覆い隠されると私は真相を伝えなくなるのです。
振り返ってみると、修煉者は一歩毎にすべての人心を捨てるのであり、幾度も迫害を受けて死にそうな人にとって、ほとんど生死を捨てることに等しいのです。もし修煉者が人の観念およびその利益と根本的な執着からなる個人のための本性に従わず、大法が求める衆生の救い済度のために行うとすれば、その業力から成る生命は亡くなっていくのです。
翌朝起きて静功を煉った時、座禅する全過程がとてもはっきりしてとても明白に大法の煉功音楽を耳にすることができました。実はこれまでの数年の間に、私は座禅する時にいつもぼんやりして、音楽が止まって意識するまで自分が煉功していることをまったく気付かなかったのです。今回は今までかつてないほど意識がはっきりして煉功音楽のすべての音符を耳にしました。
私は悟ったのは、その日はためらい迷う中で一歩を踏み出したのですが、しかし最後にその選択は、実質上人心を捨てることになり、業力の観念を捨てることになりました。師父が『米国西部法会での説法』の中で、「 それらの良くないものを取り除くことができたのは、それが自分だとあなたは認めていないからです。これは極めて重要なことです。それが自分だと認めていないから、それを滅することができました」と教えられたことを思い浮かべるのです。
2009年2月9日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/2/3/194592.html)
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