日本明慧
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人と神の違いは一念によるものである

(明慧日本)最近、自分は修煉において滑落したと感じています。三つのことをしようとしても、精進しようとする心はありますが、精進する行為はありませんでした。常に気が重く、自分のためにも、救われていない衆生のためにも焦りました。修煉がよくできていないため、自分はおそらく「中士、道を聞く」の状態だと考えました。

 このような状態は良くなく、師父も私のために焦って、何度も悟らせてくださいました。私は今からでも自分自身に存在する妨害要素を取り除いて追い付かないと、それが自分の今後と将来において何を意味するのか、何を失うのかはよく分かっていました。最近、私は朝起きられず、煉功もときどきしかしておらず、法を学ぶ時も眠ったりしました。これは正法時期の大法弟子として非常に厳しい問題です。私はもうこのようにしてはいけない、私はこの束縛を突き破ってこの関を乗り越え、正法時期の大法弟子の呼称に恥じないようにしようと決心しました。

 心情とは何か、私は神が人の一面に堕ちてから生じたものだと思います。人だけが心情のことを気にします。修煉中、私は周りの環境、天気などが時に自分の心情の変化により変わるのを見ました。今日、私はまた集団煉功する時間を逃がしました。心情は非常に悪く、窓を開けて見ると、外は濃い霧がたちこめていました。北方の1月にこれほどの霧は極めて珍しいのです。私はおそらく自分の心情と関係があるのだろうと思いました。

 朝目が覚めてから、頭にはなぜか分からず、ずっとある一言が聞こえました。「人神は一念によるものである」・・・「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある」(『転法輪』)という師父の法が私の頭に浮かびました。私は、人と神の違いは物事の善し悪しの一念の違いではないかと考えました。これもおそらく、慈悲なる師父が無辺な法力で、人と神は一念の違いであることを悟らせてくださったのです。これらが分かってから外の天気も晴れて、霧も消えました。

 無辺な大法が修煉者の人と神の一念を照らしており、人と神の一念は全部この得と失の中に入っています。師父の法を学ぶ中で、師父が再び強調された「内から探す」ことが鍵であることを悟りました。

 以上は、この間の経験の中で得た悟りであり、省みる中で私はもっと頭がはっきりし、涙をたえて筆を執りました。原稿を書く中でもっと明晰になり、良くない思想と妨害物質を取り除きました。上士になるかそれとも中士になるかは、同様にこの人と神の一念で決定されます。

 時時刻刻われわれを保護してくださる師父に感謝します。同修達は私のように怠けず、時間をむだにしないで早く内から探すべきです。

  2009年2月16日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/2/16/195524.html