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大陸の舞踊家:神韻は人類の舞踊の新しい天地を切り開いた

(明慧日本)2009年2月13日夜、神韻ニューヨーク芸術団は米首都ワシントンDCのケネディー芸術センターで第4回の公演を上演し、超満員の盛況だった。各界の名士は中国の伝統文化の純善純美と、博大で、奥深い内包に感動し、芸術家達は全く新しい感銘を受けた。

  大陸の舞踊家・王淑亭さん(仮名)は昨夜、神韻公演を見て、今日再び見に来たという。王さんは興奮して、「何度見ても飽きません。見れば、見るほど素晴らしいです。これは私が見た公演の中で、一番よい公演です。これはまさに私が探していたもので、まさに私が夢の中でも求め、どうしても手に届かなかった境界です」と語った。

  王淑亭さんは、北京の舞踊学院中国古典舞踊学部を卒業し、大きな賞を受けたこともあるが、わけあって、好きな舞台を離れた。

  王さんは、神韻を見てから、やっと舞踊の真諦が分かり、舞踊を正そうとしたければ、まず、心を正さなければならず、心が純正であってこそ、舞踊が正しくなり、芸術の道が広くなることが分かるようになった、と話した。

  王さんは、芸術の価値にしても、文化の内包にしても、中国の古典舞踊は皆世界の舞踊の主体になる潜在能力があると話す。神韻の芸術家達は優れた技、純正な理念と、並外れた精神力があり、その境界は将来きっと限界のない大道になるという。中国古典舞踊を受け継ぎ、発展させている神韻芸術団は、必ず世界の舞踊界を導き、人類の舞踊の全く新しい天地を切り開くに違いないと、王さんは信じている。

  中国の古典舞踊を極致に発揮した

  王さんは、神韻公演が中国の古典舞踊の極致を発揮したと讃嘆した。舞台全体の芸術効果において右に出るものはなく、しかも、非常に古典の風格と伝統の味がある。基本動作から、高難度の動作まで、一つ一つの造型、体の協調と、コントロール能力、流れる曲の韻律美、リズムの美、人物の性格と情感の描写や舞踊の主題の展開、衣装や道具、音楽、リズム、ライト、スクリーンにしても、舞踊の中に表した民族の味や、一挙一動の中で表したものは皆完璧で、影響力があるという。

  「役者達は速さ、重さ、長さと静かさに対してバランスが良く、非常に流暢で、自然で、全体の効果が非常に調和している。人物の特徴を表現も自然で、感情の表現はとても繊細である。手を挙げるのも、足を踏むのも、目を回すのも、皆自然の感覚である。肩の動き、腰を下げ、腕を回し、大きな袖を振る等に工夫が見える。大切なのは、公演の舞踊は皆一つの魂があり、踊るために踊るのではなく、言葉では伝えにくい情報と内在の精神を表した。これはまさに、中国の舞踊の素晴らしさである」。

  人物を生き生きと演じた

  王さんは、「神韻の舞踊は全ての高難度の動作を表しただけでなく、全体の協調の完璧さ、多彩さ、対比と統一が目立ちました。虚と実は相互に生まれ、動と静は結合し、剛があって柔もあり、急があって緩もあります」。

  「例えば、『雪山の歓びの歌』の中で、たくさんの統一された集団の動作があり、一種単純で、調和的で、整った秩序の美があると共に、リードダンサーを集団によって際立たせる部分もあり、統一の中で生き生きとし、愉快で、興奮した情緒がある」。

  「舞踊のリズム感がとても強い。公演でこんなにたくさんのキャラクター、たくさんの舞踊があるのは、容易なことではない。舞踊は人を一つの境地に導き、人物のそれぞれの性格を細微にわたって描写できたのは、リズムを正確に把握することによるものであり、リズムの変化によって、思想情緒の変化と背景の変化を表した」。

  「例えば、『花嫁を連れ去る済公和尚』の中で、一群の人達が舞台で追いかけて走ったのは、真に迫っていた。突然巨石が落ち、大きな音がし、現場が静かになったのは、『静場』であり、天災が起きた時の震憾を表したものである。その後、済公はまた出場し、人々は震憾した後、心の中は感激の気持でいっぱいだった。このような動と静の対比も中国の古典舞踊の精粋である。人物を生き生きと演じ、観衆をストーリーに導いた」。

  「心が純正であるからこそ、舞踊が正となることがやっと分かった」

  王さんは、「神韻の舞踊から、役者達の純潔で、善良な心が見える」と話した。「その美しさは、外見的な心や目を楽しませるだけではなく、内在的な美と可愛さである。役者達は精神力を集中させ、自分の役目が良く分かり、舞踊の内容と主題を良く理解し、全身全意で演じ、精神を呼吸までに融合し、内から外まで、活気とエネルギーを発し、自然に観衆に伝え、その感覚は意で分かるが、言葉では言い表せない」。

  「私はやっと分かりました。舞踊を正したければ、まず、心を正すべきです。心が純正であるからこそ、舞踊が正しくなり、芸術の道は歩くほど、広くなるのです。ただ表面的に技法を求めるのは、正しい道ではありません。以前もこの道理が少し分かっていましたが、今日は神韻の舞踊を見てからはっきりと、この道理が分かりました」。

  王さんは、長年にわたり中国の古典舞踊を踊っていたが、一度もこれほど影響力のある境界を実践し、味わったことはない。「芸術は虚偽があってはなりません。精神の境地がそこまで高くならなければ、心惹かれる芸術を演じられないのです」と王さんは感銘深く言った。

  芸術において、一番心を震憾させるのは真実である

  王さんは以前、ある古代美女の優しい美を創造したいと思い、色々な姿態と顔の表情を模倣したが、いつも虚偽な感じがして、なかなか満足できなかった。今日の神韻公演を見てから、やっと分かった。実は芸術が一番人を震憾させるのは、真実であり、技巧で表すのではない。神韻の役者達が演じた役目は、彼(彼女)ら自身であり、心を役に注いだので、どんなことを表現しても自然である。女性ダンサー達は、とても美しい。しかも純潔で、淑やかで、尊く、媚びたところはなく、優しく穏やかな感じがする。

  「例えば、『花嫁を連れ去る済公和尚』の中のお嫁さん役が恥ずかしさを表現するときに、無理なく自然であり、その動きを見ればただちにお嫁さんの気持ちが伝わって来ます。一つの自然な動作だけで、その情緒と本意が見えます。大陸の役者のように、眉をひそめて目くばせをし、誠意がなく、大衆をわっと言わせ、歓心を買おうとして、過度に、故意に自分を表現するのではありません。神韻公演の衣装は人を驚かせるほどきれいですが、俗なきれいさではなく、大陸ではやっているセクシーな服で観衆の歓心を買おうとするのではりません。神韻の衣装の高雅さは、舞踊の高雅さと同じく、普通の人と同じレベルではなく、質的な違いがあります」。

  大陸の舞踊の方向性はずれている

  王さんは大陸で、舞踊の仕事をする人は牛の毛ほど多く、レベルも皆高いといった。「中国人は苦労に耐え、働き屋で、根気があり、どんなに辛くても疲れても平気でやるが、たくさんの人は要領を得ないので、踊ったものはその境地を出ていない。実はすでに方向がずれたのである。舞踊にしても衣装にしても本末転倒で、ますます俗に媚びて、暗く醜くなり、甚だしきにいたっては、あるものは妖気があり、見るに堪えない」。

  「例えば、同じ動作の組合せは、完全に先生の言う通りに動くが、味がない。それは強弱、速さ、緩やかさと動静など、一つ一つの動作の動きの把握だけではないからだ。もっと重要なのは、自分の気質や精神および舞踊に対する理解である。『神』は『型』を導き、『型』は『神』の需要に合わせるはず。『型』を表現するために『型』を造るのではない。これは猫を手本に虎を画くような模倣ではない。少しだけの違いは千里の差があるから、技術は基礎で、技術がなくてはならない。しかし、技術があるだけでは上手に踊れるとは言えない。技術は根本ではない。精神という魂がなければ、どんなに良い技術も無駄になってしまう」。

  神韻は世界の舞踊を率い、全く新しい天地を創始する

  王さんは、バレエより中国の古典舞踊はもっと大きく、広い空間と生命力があると話した。

  「中国の舞踊が分かる外国人は滅多にいない。中国人自身もこの伝統の宝物を大切に思っていない。神韻芸術団は、中国の古典舞踊の本来の形を復元し、世界の舞台でその輝きを放ち、しかも、これほど速いスピードで広がり、西洋の主流世界に理解させ、受け入れられ、しかも高い讃嘆を受け、私達舞踊界の人に唯一の希望を見せてくれた」

  「舞踊は音楽や衣装、背景等を総合した芸術。芸術そのものは、美しさを伝え、人心を教化するのである。単純に娯楽のためではない。芸術価値にしても、文化の内包にしても、中国の古典舞踊は世界の主体の舞踊になる潜在力がある。神韻芸術団はその素晴らしい技巧、純正な理念と並外れた精神も持ち、各方面において抜きん出ていて、広く認められるだろう」

  「私は、中国の古典舞踊を受け継ぎ、発展する神韻芸術団は必ず世界の舞踊界の方向を導き、人類の舞踊の全く新しい天地を開くと信じている」と王さんは話した。

  2009年2月26日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/2/14/195490.html