日本明慧
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修煉の中の些細な体得


文/山東省の大法弟子

(明慧日本)

  身体のために責任を持つ

  家にいる老人が山で畑を開拓し、野菜を育てたのですが、半月の間に、大根、サツマイモがたくさん盗まれました。私と夫は納得できませんでしたが、わずか8元、10元の損失を気にすることはないと思っていました。しかし老人は怒って眠れず、いたるところをたずね歩き、誰が盗んだかを断定して、苦情を訴えに行き、大声で騒ぎ立てました。

 これは 完全に自分とは関係ないことと見ていました。しかし法を勉強している時突然分かったのですが、老人が怒り、争い、僅かな利益のために損得にこだわる利益の心があることは、自分の心性の現れではないでしょうか? 他の人が良く接してくれず、自分の心に反する時、口で言わないまでも、愉快なことではありません。会社では、時に仕事がとても多く、休憩時間と報酬はとても少ないと感じ、心の中で不平に思っていました。自分に良くない物質があると、こんなよくない表現が現れるのです。なぜなら同じ物質の間には制約作用がないからです。もしこれらの執着心を捨てれば、これらの良くないことが現れるでしょうか? 根本的にはこれらの生きる足場がなくなり、来たら溶けてしまうのです。

  いかなる執着も放任すべきではない

  長い間魔の妨害を突破できませんでしたが、師父の説法の中で「当時、私は表面の体の転化が、修煉してできた部分と協調し、体を修煉の中で、人間の状態から離れさせ、修煉の弟子が自分の正念で人間と同じ状態を保つようにしたかったのです」(『ロサンゼルス市での説法』)を学びました。

  私は次のように悟りました。修煉者は実際、眠いと感じるべきではなく、睡眠は宇宙が休憩する要素が必要であるので、たとえば修煉者がご飯を食べるのと同じです。しかしご飯を食べることはエネルギーを補充するためであり、お腹が空いて苦しいから食べることを牽制するのではなく、完全に自分が決めることです。修煉者は冬になると多くの服を着ますが、寒さを怖がるからではありません。修煉者は寒さを感じますが、寒さは表面的で、外に存在する一種の感覚であり、多く着ることはただ常人の状態に合わせるためです。

  ある日同修はこう言いました。「このような眠いと感じない状態に達したい、その真の一念が出たら状況は大きく変化するだろう」 そのあと、正見ネットで、ある佛家の物語を見ましたが、趣旨はある和尚が佛法の内包を感じ取れなくなった、彼は食べ物に対する執着があるためで、過剰に食べると頭がぼやけるというのです。私はずっとこの執着に対して重要視していませんでした。執着が反映してきても直ちに取除かず、夜ごはんをたくさん食べ、頭がぼやけて眠くなり、ちょっとベッドに横たわるとすぐに寝てしまうのです。以前食べ物に対する執着は小さい問題だと思い、重く見ていなかったのですが、いかなる執着も放任しておくと重大な結果を招くのです。修煉は厳粛です。

  意気消沈しない

  魔難に遭ったら、内へ向かって探しても探し当てられず、正念を発してどのぐらいの効果があるかは見えず、時間が長くなると、情緒が下がりがちです。このような状況に対してはすでに師父が明白にしておられます。「悪人の暴行が止まらない限り、正念を発しつづけます」(正念をもって悪事を制止する)

  1人の修煉者として言えば、暴力を振るわれ、逮捕されることだけが迫害ではなく、それらの執着心や観念が、私たちが大法に同化することを妨害しており、同様に私たちを迫害しているのに、なぜそれらの前で意気消沈するのでしょうか? 私たちはやるべき三つのことをよくやり、結果を求める心を放棄して、完全に動揺しないで正念を発すれば、師父が自然と面倒を見てくださるのです。

  ある道にたくさんの邪党の赤い血の旗があるのが見え、毎回通るとき正念を発するのですが、数日経っても血の旗は依然としてそこにあるのです。これらの邪悪なものは世の人を救うことを阻止し、必ず早く除去すべきであり、引き延ばすことはできません。なぜ他の同修に知らせて一緒に正念を発して除去しないのでしょうか? 正念を発するだけで、どうすればもっと早くもっとよく衆生を救い済度し、毒素を除去する点から問題を考えなかったのでしょうか。よく考えてみると自分を立証する心、自分の悟りが良く、行いが良いことを立証していたのです。

  2009年3月3日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/2/23/195962.html