日本明慧
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心を込めて修煉し、大法に同化する(二)


文/四川省の大法弟子

(明慧日本) 

  真相説明の基点

  ある同修は、残された時間が少なくなり、遠くの親戚がまだ真相を知らないので、おそらくこれからも話す機会がなくなると思い(実際はやはり時間と情への執着があり、基点が間違っている)、手元にある大法を実証する事を放っておいて資料を持って実家に帰りましたが、結局途中で検問に遭いました。発正念と親友の助けで救出されましたが、他の同修が発正念のために多くの時間と精力を費やして、もともと自分が担当すべき事を他人に任せるしかなくなりました。同時に、電話の安全などへの注意が不足しており、新たに同修が妨害されました。この同修はいつも「大丈夫」と言いますが、しかし「大丈夫」は前提が必要なのです。いつも法理に基づいていれば当然大丈夫です。

 もう1人の同修の甲さんは、遠くの同修達に資料を送っています。その地域全体はとても貧しい所なので、皆が取りに来る切符さえ買えません。この同修の甲さんはたくさんの大法の仕事を担当していますが、次第にその地域の同修達に依存する心が生じて、待つ、頼る、貰うなどの心が一斉に起きて、消耗品まで甲さんに送って貰おうとしました。何回も甲さんと交流して、行かせないようにしても止められず、甲さんはある日、途中で真相説明をしていた時に告発されました。結局自分が担当していたことを他の人に分担させ、外部との連絡を断たれました。毎回交流する時に、甲さんは師父が按排された道を歩むには正念が必要だと言って、私の話を止めてしまいました。しかし、師父は「理智をもって法を実証し、智慧をもって真相をはっきりと伝え」(『精進要旨(二)』「理性」)とおっしゃいました。どの地区、どの修煉者に関わらず皆、自分の道を開拓しなければならず、他人の支えを受けながら歩むのではなく、環境は自分で創るものです。肝心なのは法を実証することを最優先にしているかどうかの問題です。

 同修の乙さんはある地区の協調人であり、法理もはっきり分かっています。ある日、私の地区に交流に来て、皆はとても啓発されました。しかし、彼はとても疲れており、発正念の時にも手が倒れていると私は気づきました。とても心が痛かったのです。寒い中で彼と別れ、心の中でもうこれ以上彼に負担させないようして、これから何かがあればぜひ自分が解決しようと思い、彼のために発正念をしました。たくさんの同修が彼に対して依存しているせいで、最終的に彼が旧勢力に隙に乗じられて迫害されました。このことを聞いて私はとても心が痛く、もし同修が彼のもともと学法する時間を大量に費やさなければ、結果は違っていただろうと思いました。そうではないでしょうか? 誰でも同じく『転法輪』をもって修めているのに、なぜ他人がよくできて自分ができなければ、いつも人に依存するのでしょうか? これこそ外に向かって求めているのではありませんか? これらの教訓は多くあり、皆は目覚めなければなりません。皆が法に従って、初めて不壊の全体を作ることができます。

  技術顧問としての修煉

  私はめったに師父に頼むことをしません。これほど修煉しており、たくさんの事は自分で解決することができるし、いつも師父に苦労を負担していただくわけにはいきません。ただ発正念をして同修を救出する時しか師父に頼みません。

  同修に技術を教える時に、時間が足りず、相手の飲み込みが遅い場合、私は焦りを見破られないように(たくさんの事に迫られているので)、私はできるだけ落ち着いて、我慢しながら一緒にやります。たまには我慢できなくなりそうに感じることもありました。その時私は、師父が自分の気が短いことを修めるようにされていると思い、同時に師父が人を済度することがいかに難しいかを体験しました。師父は『オーストラリア学習者への説法』の中で「切に期待しています」と言われたのを思い出し、私は特別な感慨が湧いてきました。

  時にはやはり落ち着かず「法がそこにあるのにまだ進まない。技術はそこにあり、教える人もいて、本当にラッキーだ、他の同修が自分で苦労しているよりどれだけよいことか」と思ってしまうことがあります。時にはあまりに忙しくて私の晩御飯はいつも夜10時以降になるので、その時にもし選択することができるならば、私はご飯をたべることを止めれば、時間と金も省けるのにと思ったことがあります。

 たくさんの同修は大法を最優先に位置づけることができず、家庭、老人、子供などの理由がたくさんありすぎると私は気づきました。皆が先史の誓約を実行すると言いながらも、たくさんの人が真に行わず、皆が私利と情を重んじています。私は同修の執着心に対して交流しましたが、しかしずっと効果がありませんでした。この時に私は、これらの同修が今の法を正す形勢、および大法弟子として衆生を救い済度する責任への認識が浅いため精進できないのだろうと思いました。同修たちよ、将来後悔しないようにしましょう。機縁を重んじて、自分の位置をしっかり守って、自分に責任を負わなければなりません。修煉と家庭、仕事のバランスをうまくとり、法を正すことを放っておいて常人の事ばかりしてはいけません! いつも人を救い済度することを外に押し出してはいけません。ある同修は、法を学んだのにうまくやれないと言っていますが、私はやはり一心に学法をしておらず、修煉をしっかりしていないだと思います。もし皆が他人のために考え、大法のため衆生のためを考えて、われわれ大法弟子全体が自分の修煉の道をしっかり歩むことができれば、うまくできないことはなく、迫害もきっととっくに終わっていることでしょう。

  妥当でない部分は指摘してください。

 (完) 

  2009年3月6日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/2/3/194744.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2009/3/2/105235.html