日本明慧
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同修の文章を読んで、一念の違いに気づく


文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)長年修煉してきましたが、一度も自分の観念を根本から変えようとしなかったことに気付きました。未だに人の表面的な善行をなぞるレベルに留まり、人の表面的な美徳を求めています。「華麗な表面はあくまでも偽りのものです。人は本質から徹底的に自分を変えなければ、基準に達することができません」(『シンガポールの法会の講法』) 私は今やっと、同修に起きた奇跡は心性がその次元の基準に達したため、法がその境界の次元の事を現したと悟りました。

  ある同修が衆生を救うために、もう古くて食べられないスモモを文句一つなく買い、不思議なことにそれが新鮮なスモモに戻ったという、明慧ネットに掲載された奇跡を読みました。その同修は衆生を救うことしか考えていなかったので、個人の損得など全然気にかけていなかったのです。

  多くの同修もこれに似たような事を体験したことがあるかもしれません。仔細にその不思議さを吟味しているうちに、なんと私は自分の中に不思議な功能を求める心を見つけました。それは実は安逸を求める心でもありました。毎回このような事を見るたびに、自分に知らないうちにいつも羨ましがる心が生じていました。そのため、同修の表面だけを簡単に真似するだけで、根本の人心を除こうと、法に照らし心を修めませんでした。以前も似たような経験をしましたが、心の中ではいつも、あなたを救うためにあなたからものを買っているので、聞きたくなければ、しょうがないと思いすぐにあきらめてしまいました。しかし結局、これは衆生を救済するチャンスを逃してしまうことになります。私の心はまだ対等の贈答をするという段階に留まっています。ほんのわずかの差ですが、それがなんと真の私と表面的な私の間で雲泥の差をもたらしているのです。

  実は私もかつて一念の差で、非常に不思議な事に遭ったことがあります。ある朝、タクシーで出勤しました。運転手はお金をもうけるために遠回りしました。私は真相を伝えようとしましたが、運転手は遠回りしていることを隠すために、話をそらしました。あとほんの数十メートルで目的地に着くところで、私は焦りだし、正念が出て、彼が遠回りしてお金をもうける為に、三退(脱党)するチャンスを逃したらだめだと思って、二言、三言で三退の情勢と意義を説明しました。私の片足が車のドアの外に踏み出した瞬間、彼は多く取ったお金を逆に多めに返してくれました。これは思いもよりませんでしたが、深く考えませんでした。同修の体験談を読んで、正念と純善とは何かを理解しました。本当にほんのわずかの心でも衆生を救済する障害になるのです。

  私達は師父が法を正すことを手伝っている大法弟子であり、人を救済することは最も神聖な事です。師父がおっしゃったように「仏家では、人を済度するにあたって、条件を言わず、代償を求めず、無条件に助けるということなので、われわれも皆さんに多くのことをしてあげることができるのです」(『転法輪』)の要求に達しなければなりません。以前、衆生が三退(脱党)すると、うれしくなり、三退しないと残念な気持ちになるだけで、一度も本当に自分の内面を探求したことがありませんでした。何事も私達が悟れる事があります。何事も大法弟子の心によって促すことができます。今まで内に向かって探したことがなく、ましてや探そうとはしなかったのは、本当に衆生の期待と師父のご苦労に背いたことでした。

  この事は私のもう一つの人心を見せてくれました。真相資料を制作する時にも問題が絶えませんでしたので、私も他の同修のように師父にお願いして、内に向かって探しました。しかし、本心はそうではなく、やはり明らかに機械の問題で、私と何の関係もないという心理状態に留まっていました。このため、当然のことながら、何も探し出せませんでした。取り除いていなかった人心は私達の生活の各方面に反映されていることに気付きました。人を助けるという口実で、面倒なことを恐れる心、安逸を求める心を隠すために悟るチャンスを失ってはいけません。こんなに不潔な心で師父の助けが得られるわけがありません。師父は衆生のために心を煩わしておられるのに、弟子は師父の憂いを共にすることができない上、こんな良くない考えを生じるとは、自分が大法弟子であると言えるでしょうか。本当にあまりに恥ずかしく思いました。 

  この機会を借りて、再度師尊の済度に感謝を申し上げます、師父ご苦労様でした。

  2009年3月12日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/3/5/196552.html