日本明慧
■印刷版   

学法を妨害する執着心を取り除く

(明慧日本)今日『転法輪』を読んでいた時、心が平静になれず、読むのを止めて内に向けて原因を探してみました。私は考えると驚きました。『転法輪』を読む時にうとうとして眠りそうになってしまい、新経文を読んでいる時に意識がはっきりとしているのは、知識を求める人間の観念が作用し、思想業力が作用していたからです。はっきり言いますと、大法に対して信じる程度の問題なのです。『転法輪』は、何度も読んだのでほとんど覚えていると感じてしまいます。ですから、新経文のように興味が湧いてこないし、興奮した感覚も湧いてきません。これは人間の心で判断しているのではないでしょうか? 学問を勉強する時の人間の観念ではないでしょうか? 長年修煉してきたのに、このような物質が存在して妨害し、この物質の働きにより、私は大法の書物を読む時に興味が持てなくなっていたのです。また、背後には好奇心、知識を求める心も存在していました。ちょっとした不注意で、人が知識を学ぶことと同じだと思うようになりました。このままでは、大法の内包を読み取れるはずがありません。

  根本的に言えば、大法に対する信じる程度の問題で、大法が超常的なもので、すべてが大法に含まれていると信じているかどうかです。どうして字面の意味だけを読み取る学習方法に影響されるのでしょうか? もしそうでなければ、家での学法がしっかりとできず、肝心な時にどうやって、特に生死の瀬戸際に、如何なることにも動揺しないレベルに達することができるのでしょうか? 生死の関がこないとしても、どうやって法の要求を満たすのでしょうか。

  正念をもって必ず正しい行いをしなければなりません。行動があって初めて正念が表れるのです。学法は一つの具体的な行動であり、学法がよく出来ているかどうかは、信念がどれほど堅いか、師父が按排された道を歩むかどうか、あなたが大法弟子であるかどうか、そして円満成就できるかどうかの現れです。

  すべての法理は師父が説いて下さいました。修煉は最終の段階にあり、最近は師父の新経文も発表されていません。私の悟りでは、最後の道を正しく歩めるチャンスを私達に与えて下さっていると思います。私達は共に最も早いスピードで精進しなければなりません。

  私達は学法する時、その学習の形式、観念、習慣の障碍を取り除き、学法は、人を救い済度し、自分が円満成就することの保障でもあると認識すべきです(私の悟りでは、ある方面について、人々を救い済度するのも自分の円満成就も同じことです。円満があってこそ、自分が代表する天体体系内の衆生が救われるのです)。法は永久不変の真理であり、万事万物に対する解答で、宇宙が存在する源です。そして法は、修煉を照らし合わせるものであり、これ以上に貴重なことはないと思います。残された修煉の時間は限られています!

  個人の体得であり、不当なところがありましたらご指摘ください。

  2009年3月13日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/3/6/196557.html