必ず念を正しくなければならない
(明慧日本)私は1995年に法輪大法の修煉を始めました。師父は「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある」(『転法輪』)と言われたことを、私は身をもって体験しました。自分の念が正しい時と、正しくない時に得られた結果が違っていたことについて、皆さんとここで交流したいと思います。
孫が1歳あまりの時、歩けるようになったばかりのある日、私は何かをしていて、嫁は孫を連れて遊んでいました。孫が床におもらしをしたので、嫁はモップでそこを拭きました。拭いた所がまだ乾いていなかったので、孫はそこで滑って転び、床に座りました。孫は大泣きを始め、私は心配で嫁に「お医者さんに診てもらいに連れて行きなさい」と言いましたが、嫁は「嘘泣きでしょう・・ただ滑って転んだだけだし、高いところから落ちて転んだわけではないから、大丈夫ですよ」と言いました。しかし私は「こんなにひどく泣いているのだから、私は心配です・・やはりお医者さんに診てもらいましょう」と言うと、嫁は仕方なく病院に行きました。その後、嫁は「お医者さんに検査してもらいましたが、大丈夫だと言われましたよ」と言いました。
その晩、孫と嫁は家に帰りました。私は翌朝、電話で「孫は大丈夫?」と聞くと、「歩く時に少し痛むだけみたいよ」と言うので、私は「やはりレントゲンを撮ったほうが安心だよ」と言いました。嫁が孫を病院へ連れて行き、レントゲンを撮った結果、本当に骨折していたのです。「何より幸いなのは、骨折の位置ですね」と、お医者さんは言いました。孫はギブスをはめられ「しばらくは外で遊ばせないでください。2カ月後にギブスをはずします」と言われました。そこで私は「やはり、早く診てもらってよかった。さもなければ、どうなっていたかわかりませんよ」と、嫁に言いました。そして「孫の事をちゃんと見るように」と、注意しました。
しかし、このことを同修達に話したら、みんなは、これは私が求めたものであると言いました。こんなに小さい子供が、地面で少し滑って転んだだけで骨折するでしょうか? 深く考えてみると、初めてこの事の重要性に気が付きました。しかし、心の中ではやはり少し納得できませんでした。翌年の夏、ある晩、私はある同修と孫を連れて買い物に出かけました。同修は自転車を押していたので、私は孫を後ろに座らせました。しかし、ちょっと進んだだけで、突然、自転車が前へ進まなくなりました。地面を見てみても何も邪魔になっているものはないので、同修が力を入れて前へ押すと、孫が突然大泣きしたので、私達はやっと気が付きました。去年骨折していた孫の足が車輪に巻き込まれていたのです。2人ともあっけにとられてポカーンとしてしまいました。同修は「しまった! 足が曲がってしまっている、どうしよう」と焦りました。私は突然思いつき「2人とも大法弟子ですので、大丈夫」と言うと、同修もすぐさま「大丈夫だ」と言い、私は孫を抱いて、「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい!」と孫に言わせると、しばらくして、泣きやみました。店の中で、孫は「下りたい」と言い出したので、下ろしてみると、なんと本当に大丈夫で、勢い良く走り回ったのです!
ある年の旧正月、孫は家でむやみに走り回り、転んで扉の端におでこをぶつけてしまい、おでこがへこんでしまいました。当時、祖母もその場にいましたので、びっくりして急いで診察してもらおうとしましたが、私は念が正しくなければならない、絶対に大丈夫だと思い、「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と泣いている孫に言わせました。孫は泣きながら言いましたが、しばらくすると、へこんだ所の皮膚が戻り、私がもう一回触ると、へこんだ所の骨も戻りました。このようにしてまた何事もなかったのです!
この数件の事から、私達は大法の威力を見ることができ、また必ず念を正しくしなければならない、ということも悟りました。
次元に限りがあるため、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
2009年3月13日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/12/7/191246.html)
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