日本明慧
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内に向かって探す真修の弟子になる


文/遼寧省の大法弟子

(明慧日本)ある日、私は同修の家に泊まっていました。朝、静功をしている時、自分の感じでは効果はなかなかだと思っていました。この時、同修は「手がもうこんなになっているよ(手が下がっていることを指す)」と言い、私はびっくりしました。心の中では「今の静功は精神も集中していたし、ほとんど目を開いていたのに、どうしてこのようになったのか。あ! きっと師父があなた(同修のことを指す)に気づかせるために、私のこの様子をあなたに見せたにちがいない」と、その時、師父が同修の口を借りて自分に気づかせてくださったのを逆に考え、内に探すことを全くしませんでした。同修が善意に自分の不足を指摘してくれている時、謙虚に受け入れるのではなく、ひたすら排斥して、外に向かって外に探していました。

 翌日、家に帰ってから、同修(私の妹)が発正念の時に手の形がすぐ変形してしまっているのを見て、その度に私は咳払いをして、手が倒れているよと知らせました。一回、二回と言いましたが、最後には叫びたくなりました。この時に同修(私の妹)は頭をあげて私をすこし見ただけで、声を出しませんでした。

 翌朝出勤する時、心中穏やかではなかったのです。この同修の正念が足りないと思ったり、あの同修の主意識が強くないと、非難やとがめる心ばかりでした。この時、師父が『法輪大法—オーストラリアの学習者に対して法を説く』の中で、私達に内に向かって探すこと、善意で同修に対応すること、とおっしゃっていたのを思い出しました。私は落ち着いて、内に向かって探し始めました。これは情ではありませんか? 彼女を同修として見ていませんでした。完全に姉妹として見ていました。話をする時には(同修に対するような)方法を重んじず、同修の間の慈悲などとは言えたものではありませんでした。そこで自分に問い正しました。「(妹も)同修であるならば、あなたが同修にこのような対応をして許されますか? 師父はあなたの師父の弟子への対応の仕方を許しますか? この事をどうして私に見させてくれたのでしょうか? 偶然でしょうか?」内に向かって探せば探すほど、(同修との)開きが大きいと感じて、恥ずかしくなりました。自分は自己を実証する心、固執している心を持っていました。そのほかに、何かあれば外に向かって探す、相手の立場に立って問題を考えませんし、相手が受け入れられるかどうかも考えません。いつも無理に押しつけていました。今回はすぐに「こんなに強い自我は本当の私ではありません。私は大法弟子です、修煉者です。自我は必要ありません」と、私は徹底的に自我を固持する心を否定しました。そこで発正念をし、同修の間に隔てを作ろうとする旧勢力や邪悪なものを解体しようと考えました。この一念が出るとすべてが解消され、心理状態がすぐに良くなってきました。

 この事によって、自分の修煉に存在する根本的な問題を見ました。これから、私は一人の本当の修煉者になりたいと思います。内に向かって探し、自分を修煉し、全体に協調して、大法弟子として三つのことをしっかりやり遂げます。

 2009年3月14日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/3/2/196380.html