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師父は精進できない私を見捨てておられない


文/大陸の大法弟子

(明慧日本)私は1995年に法を得た古い学習者です。法を得た後は健康になり、4年間1粒の薬も飲みませんでした。大法と師父が受けた誹謗と中傷に対して私は憤慨し、中共が造った偽りや中傷を信じる人々と公衆の場所で是非を弁論しました。しかし、形勢が次第に悪化して、警官が修煉者を捕まえ始めました。夜半に私の家を捜査したことから、私に怖がる心が生じて資料を配る時も気が小さくなりました。心性が低下し、意気消沈になりました。しかし大法を手放したくはありませんでした。大法は高く、深く説かれていましたが、私の悟性は低く、又真に修めませんでした。怖がる心のせいで同修とトラブルが発生し、私はもう同修と切磋したくありませんでしたが、内心は大法を手放したくありませんし、師父と共に修煉してきた同修達を忘れませんでした。

 この間、師父はずっと私を見放すことなく、いつも私の後ろで悟らせてくださるのを感じました。例を二つ挙げると、一つは私が同修に資料を渡そうと同修の家まで行ったところ、彼女の家族に断られて、嫌な話も聞きました。あの時の私は内心にはずっと大法があり、大法弟子としてやるべきことをしていましたが、心性があまり高くなく、彼女の家族と言い争いました。私は「もう再び彼女に資料を渡さない。修煉するかしないかはあなたの問題だ」と考えました。午前に言い争った後、道路でめったに会わないようになりました。しかし、その後、同修に会うと、師父の経文を持っていて私に見せてくれました。その時胸がどきっとしました。これは師父が私に悟らせて下さっていることだと考えました。

 もう一つは、ある日の午後、同修がわざわざ私を彼女の家に誘って「あなたは今法を良く学んでいませんし、資料も良く見ていません」と指摘しました。私は平静を保てず、彼女に口答えして家を出てしまいました。あの時、自分でも自身がよく修めてないことはわかっていましたが、他人から言われたことで機嫌が悪くなりました。私の心性は常人の次元まで堕ちていたのです。

 前回言い争った後、師父が悟らせてくださったように今回も悟りました。翌日の朝のことですが、私はもんどり打って転んでしまい、腕に大怪我をして、とても痛かったのです。正念がなく、自ら煉功者であることを忘れて、X射線写真を撮ってみました。骨折ではありませんでしたが今でも痛いのです。これも師父からの警告で、私を悟らせて下さっているのだと考えました。私の心性と行いは大法弟子らしくありませんが、慈悲で偉大なる師父はこの弟子を見捨てられませんでした。

 法を学ぶ量が足りず、心性も堕ちて、ちょうど旧勢力に私を迫害する口実を与えました。1年来ずっと病気に纏わりつかれ、何回も腰をひねって、痛くてたまりませんでした。病院治療を数カ月続けましたが効き目がなく、返って次第に病状が重くなりました。医者は私に長時間寝床に臥すことを勧め、ひょっとすると麻痺状態になるかも知れず、手術をしないと完治しないと話しました。そのとき私は直ちに旧勢力の按排を否定することなく、旧勢力が按排した道を長い間歩んでしまいました。

 私は95年に法を得る前後、骨結核と診断されましたが、不思議に治ったことを思い出しました。当時足首が腫れて数日間痛くてたまりませんでした。数カ所の病院から骨結核と診断されました。私が悩んでいたところ、友達から『転法輪』をもらいました。本を開いて、まず見たのは第七講「病気治療の問題」の部分でした。本の中では「例えばどこかに腫瘍ができたとか、どこかに炎症が起きたとか、どこかに骨増殖症が起きたなどは、他の空間では、まさにその箇所に一つの霊体が居座っており、かなり深い空間に一つの霊体がいるのです」と書いてありました。私がこの部分をみて「私の足首に多分一つの霊体が居座っているのだろう」と思いながらいつの間にか寝てしまいました。目が覚めたら、足首がそんなに痛くはなく、腫れが完全に引いているのに気づきました。私は「これはどういう事なのか、何故突然治ったのか、腫れは次第に引くはずなのに、おかしい」と考えながら「きっとこの本のおかげだ、これは何という気功書か、なんと不思議なのか」と思いました。

 ここまで考えて、私は「今回も旧勢力が医者を操ってこういう話をさせ、旧勢力は私の修煉をやめさせようとしている」と考え、直ちに私は自分の心を法に基づいて正し、怖がる心を取り除き、医者の言葉を信じませんでした。私は師父の経文をじっと考えました。「この場合、二通りの選択しかありません。一つは病院に行って、関を乗り越えることを止めます。もう一つは、心を徹底的に放下し、れっきとした大法弟子らしくなり、怨みも執着もなく、残るか去っていくのかを師父の按排に任せます。このようにすることができれば、つまり神なのです」(『ロサンゼルス市での説法』)

 私は「修煉者だったら病気にかからないはずだ。この一切は見せかけだ」と信じました。当時の私は腰をかけるもことも難しかったのですが、真剣に法を学び、法を暗記し、煉功し、耐え難い痛みを我慢しました。「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」を読みながら、煉功を続けました。1回目に座禅を1時間以上組みました。師父と法があるので何も怖くなく。師父の慈悲の保護の下で、私は歩いてきました。今は既にステッキを捨て、自分で歩けるようになりました。

 みんな知っている通り、腰痛は徹底的に治る病ではありません。私は常人ではなく、大法を修めている修煉者です。大法は超常的なもので、師父を堅く信じ、法を堅く信じています。師父は転法輪の中で「心性を重んじないかぎり病気も治らなければ、功も伸びないのです」「心性の高さは功の高さ、これは絶対の真理です」と説かれました。時々刻々正念を保持し、絶えず心性を高め、旧勢力及び一切の邪悪を取り除き、師父を信じ、法を信じれば越えられない難はありません。私が執着心を完全に取り除き、心性が向上したら、腰が治り胸をはる事ができます。

  執着心は取り除き難いことで、しっかり体得し、常人の心が時々出てきても、心を込めて法を学び、精進し、心性が向上すれば、克服できると思います。現在私は、自分が修め始めたばかりの修煉者のようで、師父と大法の要求とは遥かに遠いのですが、時間を無駄にせず修煉すべきです。修煉は容易な事ではありません。今後私はより多く外に出て、心を込めて真相を伝え、より多くの衆生を救い済度します。

  2009年3月14日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/3/9/196831.html