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まず執着を放下してから話す


文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)この前、ある年配の大法弟子に会いました。修煉の問題について交流しましたが、彼女の観点は、どんな状況の中でも、まず執着を放下してから話すことが前提だと言うのです。

 彼女は例を一つ挙げて話してくれました。彼女のある親戚は彼女に借金がたくさんあり、まだ返していないそうです。昔の彼女の性格だったらきっと許さなかったでしょう。しかし、修煉者の彼女は大法を修煉することはすなわち心を修めることであると知っています。ですから彼女は、結果を考えず、まず執着を放下してから話すことにしたというのです。

  彼女の論理は簡単明瞭でわかりやすく、私も感服しました。この論理は完全に法理に合致しており、法に従っています。よく考えてみると、我々大法弟子の心が単純であればあるほど、その心はより「真」に近づいており、威力もより大きく、意志もより堅くなるのです。邪悪が大法弟子を迫害して以来こんなにも長い年月が経っていますが、大法弟子は押しつぶされるどころか、ますます大きく発展し、世界80数カ国以上に広がり、中国国内でも多くの人々が修煉の道に入ってきています。常人には理解できません。それは彼らが信仰とは何かが分かっておらず、信仰のパワーがどこから来るのかも分からないからです。われわれは陰謀などを企てることも知らず、些細な事に陥ることも無く、真の修煉者として、やるべきことをしっかり行うだけで充分なのです。 

  『転法輪』の中には 「絶えず執着心を取り除くことこそが人間の修煉の過程のすべてです」と、明確に書いてあります。これは師父が私たちに教えてくださった真理であり、簡単明瞭ですが、無辺の奥義が秘められているのです。実際、私たちの修煉はまさにこの真理を実践することであり、修煉の次元は、まさにこの真理に対する実践程度がいかほどのものであるかの問題です。どんな問題に出くわしたとしても、一人の修煉者にとっては、それはみな修煉に関わる問題なのです。その原因や、過程、結果が如何なるものであれ、まずは心を放下すべきなのです。事柄自体に執着せず、また執着する必要もなく、自己を修煉して高めることこそが肝心な問題だからです。故に、まずは心を放下すべきなのです。

  修煉の道のりがいかに苦難に満ちていても、置かれている状況がいかに複雑であっても、一時的に前が見えなくなっても、打撃がどんなに大きくても、どんな状況であっても、まずは心を放下すべきなのです。なぜならば、修煉はすなわち心を修めることだからです。

  2009年3月14日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/3/12/196993.html