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私の返本帰真の道(一)


文/大法弟子 梅

(明慧日本)私は、生きている間にずっと自分の人生を指導する智者が現れることを渇望していました。社会に出て、このような渇望はさらに強烈になりました。盲目のような生活は私の内心に常に一種の苦痛を感じさせ、そのため私はイエスを信奉するようになりました。しかし、イエスの「左の顔を叩かれたとき、右の顔を出す」と言った教えをどうしても理解できないままで、心にいかなる楽しみもなく、そこで私は離れることにしました。法輪功を修煉し始めて、心がついにぱっと開けて、心の拠り所が見つかりました。まさに家を見失った子供が帰る道を探し当てたようでした。このような幸せの感覚は常人には到底理解し難くて感受できないと思います。

 1999年夏に入った頃、妹が私に『轉法輪』を貸してくれ、何日も経たないうちに読み終えた覚えがあります。その時、座って本を読んでいると、突然吐き気をもよおしました。立って本を読むようにしても、やはり吐き気は止まらず、やむなく読むのをあきらめました。しばらくして状態が良くなってから再び読み始めましたが、あのようなくらくらした吐き気がまた出てきました。当時、師父が身体をきちんと調整してくださったことを悟りませんでした。このようなことを何回か繰り返して、ついに最後まで読み終えることができました。このようにして、言葉で言い表せない一種の穏やかさと幸せを感じて、おいしい水の湧く泉の1杯の水を飲んで、心身ともに洗い流されて、明るくてきれいになったような気がしました。6月に書店で『轉法輪』、煉功音楽テープ、功法を教える『法輪佛法—大圓満法』のテープ、師父の大連での説法ビデオテープ等を購入しました。ちょうどその頃、『1999年7.20』事件が勃発して、テレビ放送等で大々的にデマを飛ばし、血生臭い恐怖の息が大地の上を覆い始めました。私は残念な思いで法輪功の関連書籍等を隠して、納得できないまま少しずつ忘れていました。私は依然として俗世間の苦痛の中であがいていました。

 2002年になって、妹が何度も催促してくれたことで、私は幸運にも新たに大法の修煉の道を歩み始めました。すると、私の心身は巨大な変化が起きて、久しぶりの幸福感が戻って来たのです。そのしばらくの間は(自分を修めていたが、まだ真相を伝えることを知らなかった)すばらしく落ち着いていて、通勤する途中でいつも通行人を見て思わず目に涙を浮かべました。鼻炎、内分泌の不調、毎年必ず患う胃腸炎はいつの間にか全快しました。友達と一緒にいる時、話題はいつも法輪功のすばらしさと、政府はどうして法輪功を弾圧するのか理解できないということでした。私は次第に高い次元のことを言い過ぎて、友達を外に推してしまいました。これは、後に師父の説法の中で分かったのです。当時ほとんど同修の交流がなくて、学法や煉功の環境がありませんでした。2003年、師父の慈悲なる按配の下で、私は1人の高齢の同修に出会って、以来師父のすべての経文(当時私が持っていたのは『轉法輪』だけ)を読むことができました。発正念、真相を伝えること、衆生を救い済度すること、師に遵って法を正すことが法を正す時期の大法弟子の使命であることを初めて知りました。『九評』を読んでから、中国共産党の邪悪な実体を知り、真相を伝え、「三退(脱党)」を勧めるようにし始めました。

 真相を伝え始めた頃、真相資料の配布からはり始めましたが、恐れる心はとても強いものでした。その日の夜、スーパーから出て来て、原付を取りに駐輪場に行った時、鼓動が少し速くなり、手はひっきりなしに包みの中の真相小冊子を触り続けていました。駐輪場に自転車が一台ずつ並んでいて、自転車の前にぶら下がったかごは一つ一つの開いた口のように、私の真相小冊子が入るのを待っています。しかし、街灯がとても明るく照らされ、夏場で人の往来が盛んな状況の中で、私は、「もしも街灯が点灯していなかったら・・・」と心の中で思いました。自分の自転車のところまで歩いて行くと、とたんに街灯が消えて真っ暗になりました。やはり、師父は私の身の回りにいて下さっているのです。師父に感謝を申し上げます。それから順調に小冊子を配布して、沿道で真相を書いた紙を貼り終えてから、街灯が再度点灯するようになりました。真相を伝える中でこのような奇跡は実に多く、師父のすばらしいご加護に感謝申し上げます。

 (続く)

 2009年3月15日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/12/20/191922.html