日本明慧
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「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」に対する認識


文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)正月前、長距離バスに乗るためバス乗り場に行って見ると、かなりの人が並んでいました。みんなとても焦っており、私もなんとか切符を手に入れることができました。 

 バスが走り出して30分頃、料金所で些細なことで運転手は料金所の人と口論になり、相手は運転手が謝らなければ通さないと言いました。性格が横暴な運転手も譲ろうとはしません。口論しているうちに運転手は鉄板を持ち上げ、相手を殴ろうとしましたが、2、3人の乗客に止められました。乗客らはいらだちました。相手が悪いので殴るべきだと言う人もいれば、トラぶらないで、我慢したらいいじゃないか、さもないといつまでかかるか分からないと言う人もいました。一言も言わず窓の外を眺めている人もいました。この情景を見て私は、もし本当に喧嘩にでもなったら乗客全員だれも逃げることができない、と思いました。私のほうも本来は急いでおり、やっと切符を手に入れ座れたのに、このようなトラブルに巻き込まれるのはごめんです。早く発正念してこの問題を解決しようとしました。しかし、発正念を始めてすぐ『転法輪』のある段落を思い出しました。「悪い心の持ち主が歪んだことを考える時、あなたの場の強烈な作用を受けて、その考えを変え、悪いことを考えなくなるかも知れません。人を罵ろうと思う者も、急に考えを変えて、やめたりします。ただ正法修煉のエネルギー場だけが、このような役割を果たすことができます。ですから佛教には昔から、『佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる』という言葉がありますが、そういうことを言っているのです」そうなのです。大法は全ての不正な状態を是正することができるのです。そして私は小さい声で「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」と念じました。すると、目の前の光景が劇的に変わるではありませんか。あの横暴で相手を殴ろうとまでしていた運転手が急に人が変わったかのように、自らバスを降りて行って相手に謝ったのです! バスは再び高速道路を走り出しました・・・。私は本当に感無量になりました。大法に不可能なことは無いのです! 

 以前の私はこのような問題に遭遇すると、すぐ正法の口訣を唱え、時には本当に真剣に唱えても効果がなく、原因も分かりませんでした。今回の出来事を通じて、私は最初の発正念は目の前の問題を解決するための目的で、基点はバスが遅れては私も困るのでという私心があり、他人を思う心ではなかったのでした。その後、師父の法を思い出し、無私の状態になり、心の中に大法を信じ、純粋な正念を発したので、良い効果が現れたのでした。修煉の中でもいろいろなことに遭遇しますが、毎回同じような発正念で対処するわけにはいかないと思います。常人が病気になった時、足が痛い時は足を治す薬を使い、歯が痛いと歯の治療薬を使うなど、その病気に効き目のある薬を使ってこそ効果があるのです。自分の管轄範囲のことであってこそ、効果が出るのです。そうでなければ何の効果もないし、その執着心を取り除くために、かえって表面的にはもっと複雑になるかもしれません。

 大法にできないことはありません。結果は私たちがどのように悟るのかにかかっています。どのように対処すべきなのでしょうか。真の正念で対処すべきなのです。 

 少しばかりの体験と悟りですが、次元に限りがありますので、切磋琢磨するための一助になれば幸いに思います。

 2009年3月17日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/3/15/197180.html