日本明慧
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不平に思う心を根こそぎとり除く


文/河北大法弟子

(明慧日本)同修の甲さんは私に現地の同修・乙さんのことを話しました。乙さんは資料の作成を妨害され、真に内に向かって探すことなく、ゲーム遊びを始め、常人の生活を始めました。甲さんは乙さんに指摘しましたが、彼女は「やれる人が沢山いるのに、どうして私がしなければなりませんか?」 と反駁しました(乙さんの家庭はちょっと特殊です)。甲さんは彼女に「あなたが資料を作成することは師父のためでも、同修のためでもありません。あなたは自分自身のためにやっているのです。自分のために威徳を樹立しているのですよ」 と教えました。

 甲さんの話を聞いて、私はとても恥ずかしく思いました。心を鎮めて考えて見ると、本当に慈悲なる師父が同修の口を借りて私を教化しておられるのであり、私がこの話を聞くこと自体、偶然ではありません。

 甲さんは、乙さんの事を言っているのであり、私のことを言っている訳では有りませんが、しかし私にはよく分かります。乙さんのような心理状態は私にも現れたことがあり、それも1回だけではありませんでした。自分が何かを負担したら(実は正法時期の大法弟子として、そんな些細な事は取るに足りないものです)、不平に思いがちです。さらに心の中では、他の同修はどうして積極的にやらないのだろうか? 特に同修の丙さんは、家族全員が修煉しているのに「私心が強い」 と愚痴をこぼしました。

 修煉を始めて以来、師父が私に与えてくださったものは言葉では言い表せません。よく師父の慈悲に感激して涙をこぼしたことがあります。自分が大法のために何かやりたいという気持ちを持てば、すぐに師父は私に機会を与えて下さいました。「 修は己にありて、功は師にあり」なのです。すべては師父が与えて下さっていると分かっています。しかしなぜそんなに不純な心がまた表れるのでしょうか? 今、私はもっと師父の困難を実感しました。わたしは不平に思ってよいのでしょうか? 私は病気だらけの身体で、毎日苦の中で生活を送っており、師父によって地獄から救い上げられ、さらに威徳を樹立する機会を与えられたのに、それを大事にせず不平をこぼしています。天上の全ての神が軽蔑しておられるでしょう。

  同修の条件が私よりよければ、同修にやらせるべきなのでしょうか? 同修の修煉の過程は師父によって段取りされるものなのに、なぜ私が不平をいう理由があるのでしょうか? もし本当に同修のために、同修の向上および全体的な向上のためであれば、不平な思いをもって同修のことをみるべきではありません。不平に思う気持ちの背後には、私心があるのです。もし同修がやれば自分はしなくて済むという安逸心と、その分危険がなくなると思う恐怖心、さらには同修がすべてを上手くやり遂げたことに対する嫉妬心があります。同修が円満な家庭環境を築いていることに嫉妬して、完全に人心に動じられています。

  私はこの不平な思いと、それに関連している執着心を暴露して、それらを真に根こそぎ取り除きたいと思います。

  2009年3月17日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/3/4/196462.html