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内に向けて探し、人心を放下する


文/河北省の大法弟子

(明慧日本)師父は『轉法輪』で「絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」と述べられました。修煉者は常に人心が出てきますが、修煉は人心を取り除く過程で自分を向上させ、昇華させることです。私たちは常人社会で生活し、全ての出来事は偶然ではなく、正念で立ち向かわなければなりません。どの出来事も私たちの修煉の向上に役立ちます。師父は次のように述べられました。「あなたが接触する職場の環境、家庭の環境はいずれも、あなたの修煉環境であり、あなたが歩まなければならない道であり、必ず対処し、しかも正しく対処しなければならないことで、どのこともいい加減にしてはいけません。」(『シカゴ市法会での講法』) 私は毎日の出来事を修煉の向上のための試練と見なし、内に向けて探し、執着を捨てて、心性を昇華させます。

  一、日常生活の出来事を内に向けて探し、執着を捨てる

  私は次のような事を経験しました。ある日、仕事場で同僚と雑談をしていた時に、普段仲の良い同僚が、調子に乗っている私に向かって「自ら見ていないことを言わないで」と言いました。その時、彼女と少し論争になり、ほかの人が普通に言っているのに、どうして私だけ言ってはいけないか、と不満が募りました。家に帰り、この事は普通の出来事ではなく、必ず私の修煉と関係があると気付き、まだ捨てられていない執着は何かと内に向けて探しました。

  自分には「人に言われたくない」、聞きやすく耳に快い事しか聞かず、聞きたくない事は嫌いという執着心を見つけました。普段、他の人に自分の悪い所を言われると、表では受け入れているように見えても、心の中は実に納得できず、他人の意見を受け入れていません。頑固と言われることもありました。「言われたくない」という執着は私の中で根が深く、昔はずっと性格の問題だと思い、修煉者の角度から自ら反省せず、ようやく今回の出来事で悟りました。

 師父は次のように述べられました。「皆さんに教えますが、修煉者としてあなたが常人の中にいるので、耳に痛い話を聞かなければならず、それらの話を聞き入れるようにしなければなりません。(拍手) さもなければ、この最も基本的な修煉の問題さえあなたは解決していないのに、それでもまだ自分は大法弟子と言っています」(『二〇〇四年シカゴ法会での講法』)私はとても恥ずかしく思いました。長く修煉してきたのに、基本的な修煉の問題さえ解決していませんでした。その後、何回も同じような事に会って、私はちゃんと心性を把握し、この執着を少しずつ捨てました。またこのような事があっても心が平然と対応でき、不満もなくなりました。この事を通し、自分には表現する心、争う心があり、口を修めることもできていないと気付き、今後の修煉で少しずつ人心を放下します。

  修煉の道では大きな事や小さな事でも偶然ではなく、なぜ自分の身に起きるのかと悟るべきです。自分を修煉者として、常に反省し、法を基に対照し、向上すべきです。

  二、どんな考えも法をもとにし、邪悪の按排を破る

  私たちが発する一念は神の一念か、それとも人の一念かは、修煉の道を正しく歩めるかどうかを左右します。もし、その一念が法に置かれていなかったら、少しだけでも邪悪に隙を狙われ、邪魔され、迫害されます。一時期、頭の中でずっと、車のドアにぶつけられるという恐れが生じていました。路傍に止まっている車を見る度に思ってしまい、長い間どうしても排除できませんでした。結局ある日、本当に車のドアにぶつけられて、大きく転び、バイクも壊れました。当時、私はまだ相手にバイクの修理をどのようにしてもらおうかと考えていると、その車の運転手は修理の話さえ触れず、ただ「すみません」と言っただけで済ませました。

  予想の結果と違って私は失望を感じました。後で反省してみれば、このようなことが起きたのは自分が求めたからだと気付きました。長い間、ひたすら車のドアにぶつけられることを求め、ずっと排除しないまま、執着心になり、トラブルを招く羽目になりました。求めることも執着心であり、悟らなかっただけです。

  後天的な環境でさまざまな観念が形成され、これらの観念は我々の心性を試しています。もしこれらの観念を求めれば、修煉を妨害してしまいます。人の一念か、神の一念かはをっきり分け、人の一念を排除し、神の一念を強めれば修煉の道はより歩きやすくなります。もちろん「神の一念」は法を基にしているものなので、どんな時でも学法を忘れず、法で自分自身を充実させ、邪悪に隙を見せるチャンスを与えないようにします。

  法を修めることで出て来た正念を人の観念に取って代えれば、物事が思い通りに変化します。ある日、私はお客さんを呼び、家で夕食を取ることになっていましたが、正念を発する時間を邪魔されてはいけないと思い、その時間を過ぎてから来ればいいという一念を発しました。結局、お客さんは私が正念を発した後に来ました。どんな考えも法をもとにすれば、師父も神も手伝ってくださいます。ですから、「恐れる心がなくなれば、つまり、あなたに恐れを感じさせる要素も存在しなくなる、ということです」(『精進要旨二』「最後の執着を取り除こう」)に対して、改めて理解できました。

  三、「自身」からの束縛を破り、正しくする

  私はある夢を見ました。ある部屋に閉じ込められ、自分はここから逃げられないと思っている夢でした。ようやく監視する人が離れ、私も部屋から出て、外の人と話してみました。監視人が戻ってきた時に、部屋に戻れと命令され、私は部屋に片足を入れた途端、戻ってはいけないと思い、監視人がまだ鍵を探しているうちに逃げました。外は大きな道が四方八方に伸び、どこに行っても追われませんでした。

  目が覚めた後、私は自分の観念に縛られたのではないかと思いました。逃げられないと思い込んだら、出る方法さえ考えず、外で他人と話すことができたのに、その場所から離れたいとも思わず、現状に甘んじでいました。それはまさに私の修煉状態ではないかと分かりました。外に出て、何かできるチャンスがあるのに、あれこれを恐れ、何もかも心配していました。外に学法に行った時も、いつも慌てて家に帰ろうとして、夫に質問されることや怒られることを恐れました。資料を配る時も読まれないことや、捨てられることを心配しました。心は常に自分の観念に左右され、縛られました。心配する心や、恐れる心、現状に甘んじる心も修めるべき人心です。師父の慈悲なる啓示に感謝します。

  これができない、それもできないなどなどの思いは、多くは自分を守ろうとして、傷付けられることを避けようとしている心であり、深く言えば「利己的」な人心です。人心を放下できなければ、神になれません。「自身」からの束縛を破ることができれば、「利己的」な観念から抜け出すことができ、自分のためではなく、常に他人のことを先に考え、法にふさわしくない「荷物」を放下すれば、堂々とした大法弟子になれます。 

  「法を実証するという道を正しく歩み、修煉の中であなた自身からの束縛を破り、自分の執着を放下し、正念の中で衆生を救い済度し、正念をもって直面している全てに臨むことができれば、これが即ち威徳です。(拍手)」(『2003年アトランタ法会での説法』)私はまだたくさんの不足があり、師父の要求までまだまだ遠いのですが、師父のこの説法をよく学び、同修と共に精進したいと思います。

  2009年3月18日
 
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/2/7/195000.html