日本明慧
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家庭の魔難についての考察


文/中国湖北省の大法弟子

 (明慧日本)私は性格がせっかちで何でも素早く物事を解決してしまうほうです。集団学法の時もいつも他の人より読むのが早く、自分では学歴が高く、弁舌の才があると、顕示心がありました。家で、一人で法を読む時も、読む速度が非常に速く、量とスピードを求め、心の奥底には「私はもう何遍も大法を読んだ」という量に対する顕示心理がありました。長い間、私はこの問題に気づきませんでした。 

 私の修煉に対する妨害は主に家庭からのものでした。夫と2人の息子は私が大法を修煉することをずっと敵視していました。どんなに努力しても、彼らを変える方法はないかのようでした。罵ったり、ドアを思い切り閉めたり、物を投げつけたり、怒った表情を見せ付けたりといったことは日常茶飯事でした。ひどい時には手を出して傷つけられ、身の安全まで脅かされたこともありました。長い間依然として家庭の魔難から抜け出すことができず、悩んでいました。同修との交流を通じ、家族に対する情を放棄しなければならないと分かりました。しかし私は日ごろ法を読むスピードが早く、心に留めていなかったので、この情に対しては浅くて簡単かつ狭い範囲での認識しかありませんでした。心の中では、あなたたちが私に対してこんなに悪いのなら、これから私はこの愛と関心を淡白にしたらいいのではないかと思っていました。 

  これで自分自身では情を放棄出来たと思っていましたが、それでも家庭からの魔難から抜け出すことはできませんでした。家族は相変わらず私をいじめていました。そしてある日、「 怒ることも、喜ぶことも、愛することも、恨むことも、喜んで何かをするのも、嫌でしたくないのも、ある人について好印象をもち、悪印象をもつのも、何かをやりたいと思い、やりたくないと思うのも、すべてが情によるもので、常人とは情のために生きているものです」(『転法輪』)まで読んだ時、突然「恨也是情」(恨みも情である)の四文字が目に留まり、心が震えました。なんと私はいつも家族と争っており、心の中ではいつも彼らを恨み、怒っていましたが、これもまさに情ではないでしょうか?

 真相を伝える時受け入れない人や妨害をする人に出会うと、彼らと争い論争していました。これも情ではないでしょうか? また私は会社で迫害を受けていたので、会社の上司に対しても恨みや闘争心を持っていました。これもまた情ではないでしょうか? このような情を切り離すことなく、またこのような心を取り除かないまま、どうやって修煉ができるのでしょうか?

 私はこれらについてやっと理解することができました。家庭の魔難の現れ方から、内に向って探してみました。一つは取り除かなければならない情であり、もっと深いところから考えて見ると、実は家族が私の闘争心、恨みなどの除去を手助けしてくれており、業を消してくれていたのです! 以前家族から「いじめられた」時は、どうしても理解できず、時には我慢できず人心を用いて彼らと争っていたのです。それで勝てないと根に持ち、恨みに変わっていたのです。さらには彼らに報いが来ることさえ望んでいました。長期にわたって、修煉しながら片方では闘争心や恨みを助長し、この情の絡みから抜け出ることができず、情の中でさまよい、その結果、次から次へと家庭の魔難を招いていたのです。師父は私たちに次のように説かれています。「本当に高い次元をめざして修煉する人は、いかなる心も捨てなければなりませんので、これらの問題に遭った時は、くれぐれも用心するようにしてください」(『転法輪』第六講) 師父の慈悲なる救い済度に感謝いたします。弟子は過ちが分かりました!

 同時に私は学法の面において自分の間違いに気づきました。それは量とスピードを求めることでした。学法の時間が長いことに満足し、学法の量が多いことに満足し、表面上の意味を理解することだけで満足していました。心で理解することなく、通り過ぎるような感じで法を学ぶ過ちを犯していたのです。

  個人の悟りにつき、法に沿っていないところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

  合十

  2009年3月19日

(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2009/3/17/197290.html