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「自分を大きく見せる」ことは嫉妬心の根本


文/大陸の大法弟子

(明慧日本)今日、同修の文章『他人が自分より強いことを恐れるという嫉妬心』を見て、半日考え込み、「そうだ、これは嫉妬心なんだ」と、はっと悟りました。

 昔、本当に自分は他人よりできると深く思い込んでいました。ある人が私よりできるのは運が良いからで、自分も運があればもっと良くできると思っていました。上司が無能なのに自分より上であることを妬み、自分の能力を見分けてもらえず、能力を発揮することができないと思っており、また自分はただしないだけであり、やれば他人よりできる、などと思っていました。例えば「名、利、色欲」や、常人が持っている物を見ると、それらについて私は争おうとしませんが、心の中では、もし奪い合うなら絶対に奪い取れると思っていました。若くてキレイな同僚を見ると、「私は若い時、あなたよりキレイでしたよ。性格はあなたよりも良いです。今は若くないけれども、あなたより経験豊富で、人間性も深いのですが、あなたはただの花瓶です」などと思っていました。いずれにせよ、他人が良くても、あらゆる手を尽くして相手が自分より劣っているところを探し、それで安心していました。これらの心の動きは頭を使わなくても勝手に湧きあがってきました。

 今日、同修の文章を見て、これらの考えはもともと嫉妬心であるとやっと分かりました。前に考えた時、これは嫉妬心ではないかと思いましたが、この嫉妬心はとてもずるく、発見されて除去されるのを恐れていました。この嫉妬心は「自分を大きく見せる」という名目の下で「あなたには嫉妬心はない、他人よりできるだけです」と私に言い聞かせていました。内へ向かって探しましたが、いつも自分の長所と他人の短所を比べていました。しかも他人の長所をできるだけ縮小し、見落とします。どうしても見落とせないときは、ただ運が良いと見なします。そして自分が他人よりできると見なしていました。なぜ他人を嫉妬するのでしょうか? 他人を嫉妬するに値するのでしょうか、と自分に問いました。このように「自分を大きく見せる」という心は、憤慨する不満な嫉妬心をすべて覆い隠していました。実際の態度は落ちついていますが、心の中では嫉妬してたまらないのです。

 「自分を大きく見せる」ことは嫉妬心の根本であり、また逆に嫉妬心を覆い隠してしまうことを悟りました。嫉妬心を捨てるのであれば、先に「自分を大きく見せる」という塊を徹底的に捨てるべきであると感じました。私たちは自分を集合生命の中に置くべきで、集合生命の上に並ぼうとするべきではありません。一つ一つの生命は法から作られ、一つ一つの生命自身が存在する特性を持っています。言い換えれば、異なる生命には異なる生命の特徴があるのです。この多様性があるからこそ、この宇宙が豊富多彩で、一大絵巻のように生命は味わいのある生活ができるのです。

 深く考えてみると「自分を大きく見せる」ことは、旧宇宙の属性の一部であるかもしれません。「自分を大きく見せる」から、旧勢力は法輪大法修煉者が間違いを犯すとき、不平と感じるのです。そして旧勢力自身の按配を実証するために、法輪大法修煉者を自分たちの基準に達するようにしとして、一切の邪悪な手段を使って「試練」を与え、正法時期の宇宙の生命が大規模な惨事に直面することを全く気に掛けないのです。この心はどんなに利己的で恐ろしいものなのでしょうか!

 今になって、なぜ師父が「嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得ることはできないのです」(『転法輪』)と、特に強調されたのかを理解できました。

 このことを書きだして、徹底的にこの執着心を見分けることができ、根っこから取り除きました。今は内から外まで軽くなり、かつて他人に後れを取ることを怖がる心が一気に消えたことを感じました。初めて法に近づいたことを感じ、心の底から法が自分の行為を指導する唯一の規則だと思います。他人に容易に動揺してしまうその心を初めて確実に法の中に置きました。そうです! いつも他人に負けないと争う心は、どうやって他人のことを本当に思いやることができるのでしょうか? どうやって無私無我、人を先に自分を後にするという正覚にまで修煉できるのでしょうか?

 個人の次元に限りがあり、不当なところがあれば指摘してください。

 2009年3月21日

(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2009/3/18/197388.html