観念についての認識
文/大陸の大法弟子
(明慧日本)『心の鍵』という文章を読んだ後、私はある啓示を与えられました。その文章の内容は次のようなものです。マジックの大家・Picatinnyフー氏は特技の持ち主で、それは非常に短い時間内にどんなに複雑な鍵でも開けられ、脱出し、生き延びることができたというものです。これまで一度も失敗したことはありません。ある時、イギリスの小さな町の住民らがPicatinnyフー氏に挑戦しました。住民らはとても丈夫なケージを作り、Picatinnフー氏がその中に入り、強力で複雑な鍵をかけました。しかし、2時間経っても、Picatinnyフー氏は鍵を開けられなかったのです。Picatinnyフー氏がくたくたに疲れ切ってケージにもたれて座った時、その勢いでなんとドアが開いたのです。そのケージのドアはもともと全くロックされていませんでした。大家は失敗したのです。私は、その失敗点として、Picatinnyフー氏がいつの間にか「脱出」という目的を「鍵を開ける」という目的に変えてしまったことにあると思います。つまり先入観で「鍵だから絶対かかっている」と思い込んだとういうことです。
人は物事を考える時、徐々にたくさんの根深い頑固な観念を成形していきます。これらの観念は人の一生を左右するばかりでなく、真理と出会っても同様に排斥してしまうことが多いのです。人は知らないうちに自分自身にたくさんの障碍をつくっています。その観念は修煉の過程においても、多くの「絶対の真理」であると考える固定観念として現れてきます。しかし、法理と比べてみると、常人の理、常人の観念はすぐに何か欠陥があると分かるようになります。長年にわたって積み重ねてきた観念により、修煉のある境界に到達しないと気づくことは難しいのです。例えば、一般の人には「冬になると服をたくさん着なければ、風邪をひく。お湯と水を混ぜて飲むと、お腹が痛くなる」といった観念が形成されていることがあります。私の場合、犬に噛まれたことがあるので、犬を見るとその記憶が甦ってきます。その観念が強い時は、犬が私の傍を通っただけで、私は大声を出すのです。まさに「一回蛇に噛まれると、10年つるべを恐れる」という諺のようになっています。私の強い常人の観念が、この結果をもたらしたのだと思います。普段、「一度スリに遭うと、外出する時、自分の潜在意識で財布や携帯電話をしっかり握ってしまう」ようになります。「警官に連行されたことがある法輪功修煉者は、パトカーの音を聞いただけで、すぐに警戒し、敏感になります」 これらのことも、意識的にも無意識的にも常人の観念を強めているのだと私は思います。
私は、小さい時から回りの影響を受け、しだいに人の外見を見るという執着心とそういった観念を形成してしまいました。しかし、1年前にガラス戸に頭をぶつけて負傷したことから、その形成された観念に気づき、それからは自分の内に向かって探すようになりました。私は以前、人の外見に対してとても気にしていました。例えば、いつも「この人はとてもハンサムね、あの人はとても綺麗な方ね」というように人の外見が気になり、よく見てきました。そしてしだいにこの観念を強め、これを物事の優劣に対する「評価の基準」とする考えを形成し、最終的には知らないうちに形成した変異した観念を暴露することになってしまいました。
形成した観念は、常人にとって、人と付き合う時には、役に立つかもしれませんが、修煉者にとっては妨害になる可能性が高いと思います。『修煉の道を振り返って(5)−目撃証言・秘密の地下拷問室での犯罪行為』という文章に次のようにあります。「警官は法輪功修煉者を地下の拷問室に連行した。連行された修煉者は絶対他の同修のことを警官らに漏らさない、自分も正々堂々とここから出て行くと決意し、『私は法律を守る公民で法律に反することはしていません。煉功は私個人の信仰であり、他の人とは何の関わりもありません』と言った。その後、警官は修煉者を拷問しながら、罵った。『お前の江姉か、許雲峰か、劉胡蘭か!(共産党の英雄たち)私は他の人と何の関わりもありません!』」 それは表面的には警官が同修を罵っているのですが、私は、それは他の空間の旧勢力が同修の観念上の隙をついたのだと思います。考えてみれば分かるように、「他の人と何の関わりもありません」という考えは、神が同じような考えをしますか? 絶対このような考えをしません。「他の人とは何の関わりもありません」という考えは常人の考えだと思います。邪悪の迫害を認めていることだと思います。「邪悪が私を試練する、迫害することはもちろん、同修を迫害する資格もありません」と考え、正念をもって邪悪を否定すれば、大法弟子の正しい念だと思います。邪悪は同修の常人のような観念を捉え、迫害をしようとするのだと思います。修煉は、常人の観念を捨て、常人から抜け出し、常人の念から神の念に替え、大法を基準とし、大法に同化することにより、常人の理に制約されないようになることだと思います。
これまで書いてきたことは、誰か一人に対することではなく、自分自身や同修のことだけでもなく、あくまでもお互いに法理に対し認識を高めていくことにあります。
以上、個人の認識ですが、不当なところをご指摘くだされば幸いです。
2009年3月30日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/3/9/196838.html)
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2009/3/19/105717.htm)
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