「経済を破綻させる」ことによる迫害を正念で否定する(一) 文/中国大陸の大法弟子
(明慧日本)私は、自己顕示心を取り除くことができなかったため、悪辣な警官に強制連行され、1年の労働教養刑に処されました。強制連行される直前に、私の頭の中に、次のような1つのシーンが現れました。私は、鉄の手すりのある窓の前に立たされ、空は埃で曇り、他の空間から「彼女を1年拘禁しなさい」との声が聞こえました。実は、周囲の何人かの同修にも、強制連行される前に同じような光景が頭の中でぱっと現れたことがあり、それは、思想上の業力だと思い込んでいました。ですから、あまり気にせず、正念でこの邪悪による按配を否定したり、取り除いたりすることをしませんでした。それから、私は不法に労働教養所に拘禁された時、目の前に現れた窓に、見覚えがあることに気づいたのでした。
留置場や労働教養所にいる間も、私は毎日のように法を暗記し、真相を伝えていました。心の中では、自分はきっと正念を持つことで出所でき、また職場に復帰することができると思っていました。私は私立学校で働いていました。しかし、去年の始め頃、気が狂った当市区の当局が法輪功修煉者を捕まえていたため、校長は自分の利益を考慮し、一度、私に辞職させようとしました。ところが、私は承諾しなかったため、かろうじてその魔難は過ぎ去りました。今回、私は強制連行されたため、校長はきっと復職を承諾しないに違いありません。けれども、もし私が自発的に職を失えば、迫害を認めたのに等しく、校長もこれでおしまいになります。なぜなら、彼は大法の中で極めて大きい利益を受けたことがあるからです。一つは、彼の人間関係の中で命に関わる難関があり、師父がこれを解決するよう手伝って下さったこと。もう一つは、彼が出張先で交通事故を起こしそうになったところを、師父が救って下さったことです。これらは彼自身がはっきりと覚えているはずです。しかし、もし彼が私に対するこのような「経済を破綻させる」迫害に参与したなら、彼自身を壊滅させることに等しいのです。それで私は心の中で、師父に私が職場に復帰できるようお願いし、できるだけ「610弁公室」の人が校長と談義できるようにと念じました。そうすれば、校長はいずれにせよ私が職場に戻ることを拒絶できないと思ったからです。
絶えず法を暗記し、真相を伝えているうちに、私は執着心も多く取り除くことができ、師父のご加護の下で3カ月後、家へ帰ることができました。家に戻った当日、「610弁公室」の1人の頭目は「私はあなたを職場に戻るようすでに、あなたの校長に相談しに行って来ました。あなたの校長は『いつでも歓迎します』と言いました。あなたが戻る気があるかどうかはあなた次第です」と話しました。教育局の法治科の指導者は「私立学校は、いつでも人をクビにすることができますが、私はだめだと言いました。学校側に必ずあなたを受け入れるようにさせました。あなたは何も心配せず、重荷に感じないようにして、平常通り仕事と生活をして下さい。私は校長にあなたを事務室で働かせるようにさせ、あなたを差別することを許さないと伝えました」と話しました。私は「どうもありがとうございました。このことから、あなた達には明るい未来があるでしょう」と答えました。
事実、誰も私を差別することはなく、同僚達は皆復帰をとても喜んでくれました。しかし、彼らは教育部の法輪功修煉者迫害の規則によると、私を教団に上げることができないと言いました。労働教養所の科長は皆の前で「法輪功は我々から後継者を奪いとっている」と言ったぐらいです。その時、私の家族はこの話を聞いて、全てに理不尽なおかしさを感じ、このような考えは明らかに正常ではないと言っていました。
学校の中で、私は毎日のように正念を発して、このような「教壇に上がれない」迫害を否定しました。ある日、師父が私の身の回りにおられることを感じました。師父は慈悲深くて優しく、その時、私はとても落ち着いていました。正念を発するのにも、力強く感じました。午後、学校の上司は私を探し当て、授業を担当させたのです。とはいえ、彼らは、私に国学や歴史の類いの授業は与えず、授業の中で真相を伝えるのを恐れていました。なぜなら、儒家の学説や歴史上の事件を用いて簡単に真相を伝えることができるし、その効果もとても良かったからです。学校の上司のこのような考えを知った時、心の中で受け入れられませんでした。共産党文化の影響下で、中国人の物事に対する見方は、こんな風に変わってしまったのかと、がっかりしました。彼らは、私の国学や経典に関する授業で、学生が積極的な変化をしたことを明白に理解しており、しかもこれらを肯定していました。しかし、問題(迫害)に直面した時、またこんなに愚かになってしまうのです。私は、考えれば考えるほど、たまらなくなりました。しかし、考えてみるとこれはやはり、自己顕示心によるものだと気付くことができました。自分はずっと大法を修煉しており、それらの儒学や歴史等に関しては、たいしたことではありません。修煉してから「教えることのできない学生」に出会ったことがなく、このような執着心を取り除くことにしました。
実はここに、もう一つの問題が残っています。すなわち、自分は「法を実証することをせず、法を盗む(訳者注:大法のおかげなのに自分の力でできたものとすること)」という問題があったにも関わらず、長い間それを意識していませんでした。修煉する前は、絵を描くことが好きで、師範学校にいた時には、美術の単位も取ったこともあるほどです。しかも音楽、舞踊、文書を書くことや講演、書道など全てにおいて、比較的優れていました。その当時、学校の中では結構目立っており、耳に入るのはみな褒め言葉です。時間が経つにつれて、自分もそれらを黙認するようになりました。実際、それほど良くはないと知っていながらも、やはり心の中ではどことなく自惚れていて、私はとても役立つ人材だと思っていました。社会に出て、いくつかの学校を回って来ましたが、狭い範囲の仕事の中で、自分のように全面的な技能を持っている「多芸多才」な人はいませんでした。そのため、同僚たちも私を称賛しました。こうした中で、自分の顕示心がすでに、深刻になっていることを意識しておらず、逆に自分はとても謙虚なのだと思い込んでいました。
特に、修煉する前の私の道徳は堕落していたため、文章を書く時や絵を描く時、音楽を選ぶ時、舞踊を編成する時には、いずれもとても大きな魔性が潜んでいました。法輪功を修煉してから、道徳が向上し、その境地が高まっていくにつれて、これらの外在する技能も上がってきました。伝統文化が内包しているものに関する理解もますます深くなり、「教育学」や「心理学」に関する内容も、ますます明確になってきました。法が、常人の中でこれらのことを比較的優秀にしてくれたわけです。
(続く)
2009年4月2日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/3/23/197641.html)
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