ほんの一念でも正すべき
人心や私(し)を放下し、救い済度することだけを考える
この間、真相を伝えるに当たって、私は少し気を緩めており、出かけたくないとか、口を開きたくないとか、たとえ口を開いても、相手が納得できるか否かなどと、「あなたを必ず救い済度する」との強い一念を持っていませんでした。真相を伝えることをただの任務として扱い、師父が要求された基準に達していなかったのです。
私は繰り返し自分に聞きました。なぜこんな状態なのでしょうか? 結局、まだ取り除かされていない人心や私心に妨害されていたということが分かりました。出かけたくないのは、実は個人の僅かなことを放下できないからです。学法や資料を読むこと、文章を書くことなどを口実に、出かけたくないのです。実は、本当に時間を大切にしようとすれば、真相を伝える以外の時間にこれらのことができるのです。なぜ真相を伝える時間をとらなければならないのでしょうか?
その原因は、衆生を救い済度する緊迫性を根本的に認識しておらず、時間の大切さを知らないからです。師父は私たちに教えてくださいました。「この瞬間は千金、万金に値します」(2005年6月26日 シカゴ市での説法)口を開けたくないなら、結局、機縁を失ってしまいます。もしその人が他の大法弟子に会う機会がなければ、その人は救い済度されなくなるかもしれません。千百年の輪廻の中で、彼が待っていたのはただのその瞬間かもしれません。我々の人心や私心のため、彼が救い済度される希望がなくなりました。
私は精進している年配のある同修を知っています。風や雨にもかかわらず、殆ど毎日出かけて真相を伝え、1日に4、50人を脱党させたこともしばしばあります。この年配の同修は、師父の要求に従い、いつも内に向け、自分を正しています。師父が教えてくださったように、どんな人心も天国へ持って行くことはできません。師父の要求にきちんと従うかどうか、実は師や法を信じるかどうかの問題です。
表面的には我々が人を救い済度しますが、実際はすべて師父が段取りし、師父がなさっているのです。我々は常人の一切の人心と執着を放下し、自分を修煉するしかありません。『転法輪』の「行脚」についての説法のように、「行脚は非常に辛いことで、社会の中を放浪し、物乞いをしながら、いろいろな人に出会って、あざけられたり、罵られたり、いじめられたりして、どんなことにも遭遇する可能性があります。彼は自分が煉功者であることを常に心掛け、人との関係を正しく処理し、心性を守り、絶えず心性を向上させ、常人のいろいろな利益の誘惑にも心が動じません。長い歳月を経て、彼は行脚から帰って来ます。」この行脚の過程は修煉の過程ではないでしょうか? 「皆さんに一つの真理をお教えしましょう。絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです。」『転法輪』
我々が出会ったすべてのことは、必ず修煉のことであり、必ず取り除くべきは人心、観念、私心です。真相を伝えている時、形式的に行うのは、自分が大法を得て、生命の保険に入っており、他の生命を重視していないのではないでしょうか? 修煉の神聖さと衆生を救い済度する厳粛さを正しく認識できなければ、師父や法に合わせる顔がなく、正法時期の大法弟子の称号に相応しくありません。
自己のほんの一念も正すべき
しばらくの間、私は発正念、煉功、ひいては学法の時に、あらゆることが浮かんできて、まるで海がひっくりかえったかのようになんでも湧いてきました。根源を遡りますと、私がほんの僅かな一念を放任したことから始まったのです。站椿をする時、「このことはこうすべきだ、あのことはああすべきだ」と考えるのです。このような雑念を直ぐに取り除かなかったため、邪悪に利用されたのです。結局、思えば思うほど、強烈になり、発正念や学法まで妨げられました。この時、事態の厳重さに気づき初めました。浄化しようと思うと、またいろいろな考えが出てきます。
「おい、先ほどの真相の伝え方はこの方がいいのだ。もし彼が別のやりかたでやれば、私はこの方法でやる」と思うのです。暫くすると、やっと雑念だと気づきました。考え方を浄化しようと思うと、また雑念が湧いてきました。
「おい、この同修はさっき少し焦った。あの常人は変な表情をした。私は同修に協力すべきだったのに」などなど。同修に協力するのは間違いではありませんが、発正念や学法の時、これらのことを考え出すと、間違いなく妨害です。
現在、邪悪の我々への妨害はいたる所に存在しており、ですから、自分のほんの僅かな一念でも正すことは非常に重要なことなのです。時には、邪悪は法を正すことを利用して我々を妨害します。我々は早めに気づき、それらの妨害を取り除くべきです。我々を妨害するすべての口実は、どんな理由であっても、認めてはなりません。
求める心があってはならず
私は同修と一緒に近くの山へ行って発正念をしています。以前、何回行っても雑念は何もありませんでした。昨日、山が建築現場になったのを目にして、「もし人がいるなら、すぐに私達を発見するだろう」との一念が湧いてきました。そして、発正念をしていると、突然警官のような2人が現れて、「そこの2人は何をしているのか?」と数十メートルの所から声をかけてきました。私たちは足を崩し、立てた掌を下ろし、心臓がドキドキしました。幸いなことに、その2人は近くに来て、見てからすぐ離れて行きました。私たちは改めて正念を発し、しばらくすると、心が落ち着き、すべてが偶然ではないと分かりました。先ほどの求める心が実際に妨害を求めました。我々は真相を伝える時に、心を綺麗にしなければなりません。また我々はすべての人々を衆生として扱わなければなりません。どんな衣服を着ている人でも、どんな仕事をしている人でも、無差別に済度しなければなりません。この点は非常に重要だと思います。
以上は、私の現在の次元における悟りです。間違いがありましたら、ぜひご指摘ください。
2009年4月3日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/3/7/196591.html)
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