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集団学法および法を実証する中で向上する(二)

——南オーストラリアの中国語学法のグループの修煉体験

(明慧日本)

二、法を実証し、衆生を救い済度すること、共に修煉する

 師父は「二〇〇八年ニューヨーク法会での説法」で次のようにおっしゃいました。「皆さんの場合、法を実証し、人々を救い済度すると同時に、皆さんは修煉をしている人でもあり、修煉をしている人には人心があり、でなければ神になります。神はどのように修煉するのでしょうか? 神は修煉できません。」

 法を実証し、衆生を救い済度すると同時に、私たち自身の修煉での向上の道程とその機会でもあるのです。師父はずっと諄々と私たちに指導なさっています。修煉者は皆、法に対して最後まで修煉できるかどうかの試練があります。向上したければ、常に内へ向かって探し、自分を修煉します。常人の喜怒哀楽を求めず、失と得に執着しないのです。師父がすべての出来事を使って私たちの執着心を取り除いてくださるので、どんなことに遭っても事柄の表面に惑わされず、事柄の中に巻き込まれて、誰が正しいか間違っているかを指摘しないで、その中から抜け出て、まずこの事柄は自分のどの心が法に沿っていないのかを考えます。こうすれば、毎回向上の機会を逃すことはありません。

 数週間前の土曜日、同修たちは翌日クリスマスパレードで使う車の飾りを準備していました。
 
 夜勤を終えて家に帰り、2時間しか寝ていませんでしたが、起きて一日中忙しくしていました。なぜならその「車」は、わが家にいたからです。早朝から同修が来て紙の蓮の花を作り、布を買い、ある同修は車のカバーを縫い、二人の同修はワイヤーで大きな蓮の花を作り、私も同修の昼食、晩食などを作ることに急いでいました。皆は乗り物の飾りを仕上げようと懸命に頑張っていました。

 一日中せわしく働き、夕方になってやっと車の装飾ができました。学法するために同修達が次々とやって来ました。学法している時、とても疲れたと感じ、今日煉功していないことに気づいたのです。学法が終わって、同修を門のところに送るとき、同修は「今日あなたは慈悲心がないね」と言いました。他の同修も「あなたの声は大きすぎる、やさしくない」と言いました。その時、気分は良くなかったのですが、それを認めて、「分かった、みんな一緒に内へ向かって探そう」と言いました。

 すべての同修が帰った後、食器を片づけ、台所をきれいにし、部屋を整えました。一段落したところで真っ暗な部屋に座り、くやしさで悲しくなり、思わず涙が出ました。自分が一日中たくさんのことをやったのに、同修の理解を得ることができないことでとても悲しくなりました。旧勢力の要素、巨大な業力が山のように押し寄せてきて、呼吸しづらくなって息苦しさを感じ、泣きながら師父に問いました。「師父、なぜ修煉はこんなに苦しいのですか!?」普通、同修の一言でこんなに悲しくならないのですが、今日は非常に疲れていたせいで、心性が最も向上する必要があるときに、問題が生じました。それで深く自分を問い詰めたのです。「あなたはなぜ修煉するのですか? 誰のために修煉していますか? あなたの執着心を取り除く絶好のチャンスではないですか?」しかし自分を問い詰める過程はとても辛かったのです。

 法輪功修煉者の心性はこの激しい執着心を取り除く過程で錬磨し、向上します。師父は『洪吟二』の「執を去る」でこう次のように説かれました。「修煉の事言うと雖も 心中の執を去り得れば 自己に非(あらざ)るを割捨す 都(すべて)是迷中の癡」。師父はすべてをご存知です。私たちはまだ何の心を放棄してないのでしょうか?! 二日後、その同修と会ったその瞬間、良くないと思う心、不愉快に感じる心などすべてが消えて無くなったのです。心の底で深呼吸し、師父に向かって合掌し、「師父の慈悲に感謝いたします。修煉は素晴らしいことであると感じました」と思ったその時、身体の周りは慈悲のエネルギーに包まれ、目の前にいる同修もとても慈悲で穏やかに見え、彼女の良いところばかり見えました。

 法の勉強、暗記を通じて、私は深く悟りました。正法時期の大法弟子の修煉は、法を実証することと衆生を救い済度することを同時に行い、これを基点にすべきです。私たちが内へ向かって探すことは、自分のすべての変異した考えを取り除くことで、決して何かの問題を解決するためではありません。発正念で、師父に授かった佛法神通で大法を防護し、宇宙をきれいにし、衆生を救い済度することに使うのであって、決して自分を守り、他人の問題を解決するためではありません。私たちが真相を伝え、衆生を救い済度することは、大法の人間界での慈悲なる現れであり、自分の圓満成就のためではないのです。

 法を実証する仕事に集中し、三つのことをよりよく行える最大の保証は、たくさん法を学び、学法に集中し、落ちついて学法することです。

三、グループ学法をするときに多く交流し、同修との差を埋め、お互い協力し合い、ともに向上する

 私たちの学法グループは学法以外に少し交流しています。私たちは、交流時間が短く、事実に即して議論することもないし、具体的な体験を少し話すだけだと気づきました。このように交流していますが、実際、最も重要なことは交流を通じて、法に従ってその出来事はどうすべきだったかを考え、内へ向かって探し、自分の執着心を取り除くことです。

 もし交流で具体的な問題に対して切磋し、議論するのであれば、交流してもことは終わらないのです。問題について論じれば論じるほど、解決できないだけではなく、悪循環となって、時間がたつと消極的になり関心もなくなり、その結果、わだかまりを残して、全体の協力と向上に影響するのです。

 私は次のように悟りました。交流のとき、同修の具体的な名前を出さないこと、なぜならその問題は自分が向上することのために起きたことであり、同修に不必要な問題や苦しみを与えるからです。

 学法と修煉で切磋琢磨し、お互いに努力し合うことを通して、法に従って最も向上することができるのです。全体が協力し合うことは、法が大法弟子に対して要求するところです。同修間の争いや矛盾はお互いに向上し、執着心を捨てる機会であり、問題を避けて通るべきではないのです。なぜならそれが私たちの修煉する形式であるからです。

 南オーストラリアの法輪功修煉者は少ないのですが、一人一人の同修はしっかりと自分の修煉の道を歩んでいるのです。みんなが多かれ少なかれ法を実証する項目(プロジェクト)を行っています。たとえば、大紀元新聞、新唐人TVの番組制作、毎週中華街やビクトリア広場で法を広める、真相を伝える、『九評』を配る、三退を勧める、真相を伝えるために中国大陸に電話する、十数か所の地域で学法と功法を教える教室を担当する等、今は「神韻芸術団」の公演を準備しています。師父は私たちのためにもっと多くの衆生を救い済度し、自分を向上させるための機会を与えてくださったのであり、すべての大法弟子が全力でそれに取り組むことを願います。

 ある同修は、次のように深く悟りました。法を実証する仕事をするとき、仕事自体を重く見るのではありません。法を実証する仕事には高低がなく、(観るのは)心性の高低であり、指導員や責任者、資料を配る人にしても、皆修煉をしている人で、それぞれ執着することや不足があるものです。みんな大法の中で修煉しているので、絶対に常人のような上下関係の観念があってはなりません。同修に対して、衆生に対してもう少し理解を深め、心を広くし、慈悲を持ちましょう。

 皆さん、共に精進していきましょう!

 師父に感謝します! 各同修に感謝します!

(完)

2009年4月4日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/3/18/197351.html