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『転法輪』を暗記する中で向上する


文/黒竜江省双城市の大法弟子

(明慧日本)師父は『転法輪』の中で、「修煉ということは、遊びごとではなく、常人の中の技能でもなく、非常に厳粛なことです。修煉するかしないか、修煉できるかどうかは、すべて自分の心性をどうやって向上させるかにかかっています」とご教示されました。

 実は「7.20」以前、師父はすでに私の夢の中で、法を暗記するように悟らせてくださいました。当時は法に対する理解が浅かったため、師父が悟らせてくださっていたとは認識できませんでした。その後、法への理解が向上し、明慧ネットで同修が書いた法の暗記に関する文章を読むことによって、法を暗記する重要さを悟り、それで法を暗記することを決意したのです。

 もともと私は毎日通読ばかりしていて、後になって全体を一通り暗記するようにしました。初めて最後まで暗記し終えた時は、すでに1年も過ぎてしまって、あまりにも時間を費やしすぎてもったいないのではないかと思いました。そして、私は再び通読し始めました。しかし、第一講を読み終わった時点で頭の中は一面の空白で、何も読んでいないような気がしました。それで私は、これは師父が私に引き続き法を暗記するように悟らせてくださっているのだと悟り、そこで『転法輪』をまた再び暗記し始めました。

 その時、他の二人の同修も私と同時に法を暗記し始めました。しかし、間もなくして私たちのところで法を学ぶグループを創立すると、みんなで一緒に法を学ぶことによって、法を暗記する時間とおのずと重なってしまい、どうしようかと思っていました。いろいろと考えた末、毎朝煉功する前の1時間を利用して法を暗記することにしました。

 しかし、問題は小さかったのですが、電気をつけると家の人は眠れなくなり、どうしようかと思っていた時、師父は即時に私を悟らせてくださいました。仏像前の蓮花灯(師父の肖像は家の客間に掛けていて、ランプは一晩中つけている)の光を利用することができるのではないかと気づきました。不思議に思ったのは、窓越しに入って来たランプの余光でも、経文の字を見れば見るほどはっきりと見えて来て、夫は時々、人に「彼女は偉いでしょう、家の中であんなに暗くても本の字が読めて、また自分の目が悪いと言うなんて」(私は強度の近視だが、メガネを掛けたことがない)と冗談で言います。こうした中で私は皆とただ笑うだけでした。しばらくして、夫は孫の勉学に使わせると言って、私を誘って電気スタンドを買いに行きました。しかし、買って来ても孫はちっとも使わないままで、私にとってちょうど好都合でした。まるで私のために買ったようなもので、このすべては師父の按配がなければあり得ないことだと思いました。

 私は『転法輪』を4回目に暗記した時、『明慧週刊』で同修が法を暗記して素早く向上し、昇華したという文章を読みました。しかし、自分は依然としてそのままではないかと思いました。ある時、同修にこのことを話すと、同修は、「あなたはよく行ったのではありませんか」(その同修は、同修への資料送付や真相を伝えることを言っている)と言います。そこでいろいろと探ってみるうちに、ある日、夫婦の間の情に関する執着がまだ捨てることができないことに気づきました。私は以前から長い間これらのことに惑わされたり、いらだったりしたこともあります。時には出家して逃避するような極端な心理状態にまで発展し、親戚たちは到底理解することができませんでした。絶えず法を学ぶことによって、やはり自分の執着心がまだ残っていることに気づきました。師父は『転法輪』の中で、「こういうことは大げさに考える必要はなく、あまり気になるとそれはそれでまた一種の執着心になります。夫婦の間には、『色』の問題がありません。しかし欲望はあります。そこで淡々として、心理的にバランスがとれればそれでいいのです」とご教示されています。

 法を暗記する中で、このような執着心を取り除いていきました。言ってみれば不思議に思いますが、私がその執着を取り除いた時、孫は突然自分一人で寝るのが恐いと言って、夫と一緒に寝ることを求め、私を小部屋に寝させるようにしました。このようにして、私たちは別々に寝ることにして(すでに2年に経った)、時に一緒に寝るとしても、何も起きることはありませんでした。夫は特に気にすることがなかったかのように、今まで通り和気藹々としている様子を見て、一安心して、色欲の関門を乗り越えることができました。これらのすべては師父が私を助けてくださったのであり、自分が執着心を取り除くことができたとき、すべては必ず理にかなった結果となるのです。ちょうど師父が『転法輪』の中で、「あなたにそういう願望があれば充分です。本当にこのことをやってくれるのは師で・・・」とご教示された通りです。つまり「修は己にありて、功は師にあり」なのです。

 修煉は本当に遊びごとではありません。時に自分はよく修めて、三つのこともしっかりと行っていると思っていますが、考えてみるとやはり深く隠された執着心が依然として残されていることに気づきます。例えば同修からの称賛を耳にすると嬉しくて、自分の不足を指摘されると気分が悪くなり、時には言い争うことさえありました。また、正念を発する時にいつも手が倒れたりして、その時に同修に注意されると、心の中では嫌な感じがして、その上、時々他の人の手を盗み見て、手が倒れているのを発見すると、直ちに指摘して(心は穏やかでない)、あなたの手も倒れたのではないか、というように、闘争心が直ちに起きてしまいます。そうしたとき、内に向けて探していないことにより、辛く感じたり良くないと思ったりしていても、どうしたら良いのか分かりませんでした。しばらくの間はこのような状態が繰り返され、自分がようやく内に向けて探し始めると、多くの執着心を探し出すことができました。闘争心、歓喜心、顕示心、嫉妬心などのすべてを隠さずに、同修の前で曝け出しました。すると、発正念の時に手が倒れたりすることがなくなり、心も穏やかになったと感じました。

 私はこの原稿を書く前日、今まで比較的に取り除いていた子供に対する情が再び降りかかって来ました。2年も家に帰って来たことのない息子に電話をすると、息子は電話に出てすぐに「なに?」と言いました。私は伝えたいことを言い終えると、彼は「じゃあね」と言ったので、私は電話を切りました。電話を切ってから何となく寂しく感じて、お母さんと一言も呼んでくれなかったことを気にしていました。引き続き2番目の息子一家が省都から帰って来た時、多くの服を買っていて、しかもそれぞれの値段を私にいちいち教えてくれました。その時、私は心の中で、お母さんのものだけない、といささか焼きもちを焼きました。しかし、師父は『転法輪』の中で、「常人には理解できないかも知れませんが、そういうことに執着すれば、あなたはまったく修煉ができません。ですから仏教にはそのような内容がないのです。修煉したければ、人間の情を捨てなければなりません」とご教示されました。

 師父のこの法を再び学ぶことによって、私の心は静まり、自分の子供に対する情を取り除く時が来たと知ったのです。修煉する中で法をよく学び、法の中で師父の要求に従って、内に向けて探すことによって、絶えず向上することができると感じました。

 2009年4月6日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/4/1/198180.html