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一生の計は「勤」にあり

(明慧日本)釈迦牟尼佛は涅槃の際に、最後の戒律を残しました。その一つは「寝坊してはいけない」というものだそうです。佛様の話にはきっと深い内包があるはずで、とくに涅槃のときの説法はもっとも大事に覚えておくべきです。これは佛様が弟子に修煉のもっとも重要な要素を啓示されたのかもしれません。

 数千年が過ぎ去りましたが、今日の修煉者に対してもこの言葉は依然として智慧を与えています。寝坊の本質は怠惰であり、怠惰自体は人間の魔性の表れです。言わば怠惰の習性をなくさない限り自分の魔性を助長するのと同じなのです。

 しばらくの間、私は学法と煉功を続けられなかったのです。朝起きるのが遅く、いつも寝不足と感じていました。自分でも焦るのですが、良く行う事ができませんでした。毎日時間を無駄にしている中で、徐々に自分の修煉には一つ足りない事があると分かりました,

 それは「勤」と言うことです。「一日の計は晨(あした)にあり、一年の計は春にあり、一生の計は勤にあり」ということわざがあるのですが、私は「春に寝坊、秋に疲れ、夏に居眠り」して、時間をただ睡眠のために費やしたのです。釈迦牟尼仏が弟子に遺した教訓は、きっと修煉者にとっての大問題であり、それを突破しなければならないと悟りました。特にわれわれ法輪大法の修煉は、「師は入口まで導くが、修行は各自にあり」(『転法輪』)なので、自己管理はしっかりして精進し、修煉しなければなりません。

 多くの佛家の修煉物語の中で、僧侶は幾世の輪廻で修煉しながら、毎回苦しくても怠けてはならず、「修煉は流れに逆らって泳ぐが如し」で、努力しなければ後退します。一旦心性を保てなくなれば修煉は台無しになります。大法弟子としては、今生の内に修煉し円満成就すべきなので、幾世にもわたる修煉ということはありません。だからこそもっと厳しく自分を律して、普段の言動をしっかり把握し、絶えず魔性を取り除かなければなりません。

 明慧ラジオは毎日煉功音楽を既に放送していますが、たくさんの人は朝の同時煉功に参加していません。我々は大法を修煉しており、時間、場所、方位を重視しませんし、法が人を煉るという特徴がありますが、そもそも大法にはそれなりの伝統があります。中国大陸で、1999年以前には、大法弟子は皆毎日4時から6時の間公園で煉功しており、季節に関係なく、雨風にも負けずに続けていました。この良い伝統は長く保っていく価値があるのではないでしょうか?

 迫害が10年も続いて、たくさんの修煉者に体の老化現象が現れました。生命双修の功法であり、最初の段階で若返ることがあるものの、たくさんの弟子が老化している実態は、やはり煉功不足ではないでしょうか? 人を救い済度する事に没頭していて煉功ができなくなると言う人がいるかもしれませんが、学法を通じて、私は「佛光が普(あまね)く照らせば、礼儀が圓明(えんめい)となる」ことを理解しました。

 もし高エネルギーが体に充満している者が真相を話せば、そのエネルギーが常人の良くない思想業力を滅する事ができます。そして常人に正念を持たせ真相を受け入れさせて、より良い効果を収めることができるのではないでしょうか?

 朝起きて煉功することは大法の伝統を守り、生命を双修するということであり、魔性を取り除き、身体にエネルギーを充填することなので、煉功するということは衆生を済度する必須の条件となります。 

 夢の中で師父に啓示されたことがあります。それは「瀋陽地区では朝の煉功が不足している」と言うことです。同修と交流して見たところ、半数の人が煉功を堅持していないことが分かりました。ここで、、瀋陽の大法弟子皆が師父の期待を裏切らないように、三つのことをしっかりと行い、精進修煉し、さらに衆生を救い済度することができるよう、瀋陽地区の同修に注意して欲しいです。

 2009年4月7日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/3/29/197956.html