日本明慧
■印刷版   

人間の枠を越える


文/中国河北省の大法弟子

(明慧日本)私は1995年に法輪功の修煉を始めた古い学習者です。師父と共に、紆余曲折の十数年間、法を正す道を歩んできました。しかし、病業の面で何度もつまずきました。腹水の症状が現れ、何度か家族に強引に病院に連れて行かれました。医療費も二万元以上使い、自分及び家族や衆生を済度することに良くない影響を与えてしまいました。そのため、病院を恐れる観念がますます強くなりました。そして、この恐れる心を探し当てることができ、実在のものではないと認識しました。それから、発正念をし、旧勢力の按配を否定することで、何度か乗り越えてきました。しかし、良くなってからも病業はまた繰り返し現れてくるのです。自分では法の学習もしっかりしているつもりで、どうするべきかも分かっているし、内に向かって探してみても、どうしても根絶することができないのです。治っては再発するという繰り返しで、私は言葉に表せない程の苦しみを味わいました。

 最近、ある同修が私を自宅に招いて交流してくれました。数年来、交流や学法、また発正念や根本的な執着心を探すこと、善解などやるべきことは全部やってきたつもりでしたが、完全に根絶することができませんでした。そして、自分には法をたくさん学ぶことによって必ず突破できるという自信もありました。師父が私達に集団で修煉する環境を残してくださったのは、私達が共に精進することを望んでおられたからです。しかし、私は以前、人と交流するのが嫌いでした。今回は同修の熱心さに触れ、一度試してみようという気持ちになりました。もしかすると、私が置かれている状況の助けになるかもしれないとの望みがあったからです。

 同修の家に着くと、同修は病業の問題は口にせず、自分の現段階での学法に対する認識を述べました。私は静かに聞いていました。彼の考えと共に私の考えも高い境地に到達したようでした。振り返って人間社会の理を見ると一目瞭然ではありませんか? これは私の学法は少なくないが、悟性が低いのだということを、師父が彼の口を借りて啓示を与えて下さったのだと思います。

 彼は、同修達に普遍的に存在する問題として、執着の中で執着を探すことを上げました。師父は「2008年ニューヨーク法会での説法」で次のようにおっしゃいました。「三界は造られた当初、理が逆になって造られたのであって、ここに正理はありません」私達が三界内で問題を見て、執着を探しても、果たして三界を出ることはできるでしょうか? 三界の外に立ち、常人とは違う理で常人を見た時に、彼らの一つ一つの言動、一挙一動が利己的な汚い行為であることに気付くことができます。新しい宇宙に「私」はなく、全ては他人のために存在します。そうであるならば、私達はこのような利己的な理を天国に持ち込み、そこの主や王になることができるのでしょうか? この問題を悟り、常人の全ては本当に子供の遊び事のようで、私達の心を動かすことはできないと思うようになりました。

 師父は1999年7.20以前にすでに私達の個人修煉を至るべきところまで押し上げて下さいました。弟子はすでに神の一切の能力を備えているのです。しかし、どうしてその神通力を発揮できないのでしょうか? それは私達がまだ人間の枠の中にいるからではないでしょうか? 三界内の全ての生命には善と悪の両面の要素が存在します。あなたがどちらかの層の生命に合致すると、その層の生命はあなたを妨害することができ、あなたの身体に影響を及ぼすのです。それでは、大法の角度に立って問題を見た時、人間のものがあなたの思想に入り込んできた時、すぐにそれを排除すれば、それは瞬時に解体されるのではないでしょうか?

 我々はよく、考えが落ち着かない、煉功時に雑念が多い、あるいは真相説明の肝要な時に突然人間の観念が入ってきて、予想に反する結果になってしまったなどと、悩むことが多いものです。後になって、その時そのように考えなかったら良かったのにと後悔しますが、しかし反対の理で物事を見ると、それはまさに良いことではないでしょうか?普段はそれを消滅したくても探せなかったのに、今回は自分で現れてきたのだから、消滅させる良いチャンスではないのでしょうか?

 私達は以前、名利や色、怒りのためにたくさんの思想業力を作り、常人の千万年の歳月で人間の理、人間の観念を形成してしまいました。しかし、それを取り除かないまま、果たして修煉ができるのでしょうか? 師父が私達に人間のものをまだ残して下さっているのは、法を実証しながらそれを除去し、向上させ、威徳を樹立するためなのです。もし人間の考えが全くなかったら、返って修煉できないのです。人間がいいにおいだと思うものは実は臭く、人間が良いと思うものは実は悪いものなのです。全ては反対の理で見なければならないのです。これについて、師父は「2008年ニューヨーク法会での説法」で次のようにおっしゃいました。「大法弟子にとって、これは最も基本的な法理であり、最も基本的なことです。幾年も過ぎ去りましたが、まだ根本から観念を変えていない人がいます。もう何年修煉したのでしょうか? まだこのように物事を見ることができず、正しく物事を見ることができません」師父の懇ろな教えを私達はよく悟る必要があると思います。私達は常に外来からの妨害を取り除き、トラブルの中で大法の理をもって量ることによって、本性の一面が自然と現れてくるのです。

 同修の家族は皆修煉者で、彼の妻はこのように言いました。「現在うちの家ではトラブルが減り、家族がより仲睦まじくなりました」彼らを見ていると、本当に心打たれるものがあります。法理が明確となり、真に内に向けて探すということが分かり、私自身も大きな荷物を降ろせたような気がしました。以前は病業の状態と共に恐れる心も強かったのですが、今はその観念が出ると、すぐにそれを掴み消滅してしまいます。刻々と人間の念による妨害を取り除くことができるようになりました。長年修煉しても体験した事のない「人間には人間の楽しみがあり、神には神の楽しみがある」といった言葉の意味を体得することができました。執着心を取り除き、次元が昇華した時の、広々としたその心の感受は、本当に言葉では表現できないものがあります。

 2009年4月9日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/4/5/198396.html