日本明慧
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名利を求める心は放下しなければならない


文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)私は明慧ネットに文章を発表する時、特別なペンネームを使い、絶対に同じペンネームはないだろうと思っていました。とりわけ、長年党文化が染み込んでいて、何事をしても人並みでは満足できなくて、何でも他人より優れているべきだと思う傾向がありました。師父は、この強烈に自分の才能を顕示しようとする心、名を求める心を私にはっきりと自覚させてくださいました。最近、明慧ネットで私が使っているのと同じペンネームの文章を見た時、心のバランスを崩し、それからはこのペンネームを使わず、新しいペンネームで文章を発表しました。しかし、それからまたまた、同じペンネームで発表した文章を見ました。私は動揺して「なぜ何度も同じペンネームが出るのか?」と考えました。後で「これはおそらく師父がこのことを通じて、私の強烈な名を求める心を取り除くようにしてくださっているためなのだ」と悟りました。

 朝、師父の新経文を学んでいた時、法の中の次の段落が目の前で輝きました。「私はこの文章が誰によって書かれたものかは重視していません。文章によって反映されたものが、学習者が法を実証することに有益であれば、私は励まします。ひいては反対者による文章であってもかまいません。なぜなら、救い済度しようとしているのはすべての衆生であり、迫害がまだ終わっておらず、大法修煉者の修煉の道はまだ終わっていないので、それはすなわち機会であり、人にとっての希望なのです。」(『師父と大法を称え 師父の評注』)

 かって、この段落の法を学んだ時「私のことではない」と考えて、気にしていませんでした。でも今回は、なぜこんなに強い光で私に注目させるようにしたのでしょうか? 「これは自分の名を求める強い心が極度にまで至り、師父が悟らせてくださっているのだ」とここまで考えたら、私は自分を恨み、後悔して涙を流しました。自分の意気地ない所作が師父に苦心をおかけすることになって面目なかったからです。

 ちょうどこの時、娘が傍で真相小冊子を読んでいました。その中で楊建生さんの話が私を感動させました。「本当に高い評価とは、音楽を聴いた後、その『歌』が心に残っていることで、歌手のことが心に残っているのではないということです」なんと素晴らしい話でしょう。私はまるで、純粋な演技者の心が神韻の舞台できらきらと光り輝いて、迷いの中にいる世の人々のを目覚めさせるように感じました。

 師父の法に照らして、このような同修と比べて自分を顧みると、恥ずかしくて顔が熱くなりました。この熱さで、自分自身に存在する見掛けだけは堂々としていますが、実は汚いこの名を求める心を燃やしました。私は必ず正念でこの名を求める心を取り除きます。これは真の自分ではないのですから、一刻も残しておいてはいけません。

 ついに、私は神韻が短期間で世界中に広がっている原因が分かりました。この最も重要な原因は、出演者は名利を求める心や、利己心というものがない偉大なる神々で構成された芸術団であるからです。だからこそ、彼らは素晴らしい公演を演じることができました。

 それから、私は明慧ネットが度重なる困難や苦労の中で今日まで歩んできた中で、全世界の善良な人たちが擁護し、褒め称える原因が分かりました。これは、無数の無私無我で名利に淡白な大法弟子が参与しているからです。

 名を求める心は高い壁であって、円満成就への道を阻んでいます。自分の私心を考え、とりわけ名利に汚れた心を見ると、恥ずかしくて顔向けができません。この壁を押し倒さなければ精進も、昇華もできず、とりわけ衆生を救い済度することは不可能です。

 私はこれらを悟って名利心を取り除こうと思った時、心は雲ひとつない晴れ晴れとした状態になりました。これは、師父が弟子に自分の空間場が光り輝いているのを見て修煉に自信を持たせるため、弟子を励まして下さっているのだと分かりました。

 2009年4月10日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/4/8/198520.html