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自己を放下する


文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)多くの修煉者は、自己を放下しなければならないと分かっていると思いますが、どのようにすれば自己を放下したことになるのか分からないかもしれません。「自己を放下する」ことの内包は広くて深く、ここで個人の浅見を話したいと思います。

 強烈に外に向けて執着し、求める時、いつも「私は必ずそれを得るようにする」、「どうすれば得られるのか」などと考えるでしょう。もし、我々は自己の内心にある執着を放下すれば、求める心や、欲望なども放下できます。そのとき、我々は気が楽になり、生活も簡単になります。自分が得るべきものを得ても大喜びせず、失うべきものを失っても全く心配しません。修煉中のすべてのものに対して、自然に任せて取捨し、喜んで平然と対処できます。

 強い個人的な観念をもって物事を判断し、世界のことを観察するとき、いつも「海水は青いのに、あなたはなぜグレーと言うのですか」、「その人はなぜこのことをめちゃくちゃにしてしまったのでしょうか」などと考えるでしょう。これは、常人社会で形成した観念をもって善悪を判別し、他人に要求しているのであって、自己の狭い思想の枠の中で世界を観察しているのです。もし、我々は自己を放下すれば、自分が見たことは取るに足らないことだと分かります。世界は広くて何でもあり、千奇百怪な景観や、様々な人、多種多様な物事など、豊富かつ多彩であり、すべて世界の多様性に基づいています。このことが分かれば、我々は心の底からすべての生命を尊重し、静かな目で周りのことに対処できます。我々は大覚者としての姿勢で人間のことに対処すれば、すべてを理解でき、容認できます。

 怒り恨み、不平に思うとき、どこに行っても怒りや恨み、不平に出遭います。「彼に優しくしていたのに、馬鹿にされた」、「頑張ったのに、給料がこんなに少ない」などと文句を言うのです。もし、我々は修煉者としての心境を持っていれば、不満や不平などないはずです。世界は不公平だ、人間は不公平だと思うのは、まさに自己の心に不平な心があるからです。他人が自分を困らせているではなく、自分の業力を返さなければならないのです。給料が少ないのではなく、自分が求め過ぎているのかもしれません。

 他人がだめだという考えばかりを持っているとき、自分の前に現れたのはすべて他人の短所や間違いばかりです。「彼は利己的だ」、「彼女はごたごたを巻き起こす」、「彼は自分が正しいと思いすぎだ」など、他人が悪いということばかり思うのは、自分は他人の悪い所だけにこだわっており、他人の良いところが見えないからです。もし、考えを少し変えれば、我々は必ず分かります。「修煉者の我々は間違いをしたときもしばしばあります。ましてや常人はなおさらです」修煉者として、常人の間違いを容認できないことはいけません。

 闘争心があるとき、他人とのトラブルが随時起きます。そのとき、我々は冷酷で、ケチで、言った言葉は刺のように鋭く、目つきも針のように人を傷つけます。「私は悪くない。あなたが間違っている」相手も同じような言葉で、「私は悪くない、あなたが悪い」と言い返してくるのです。それは、闘争心を持っていながら常人のトラブルの中に陥ったからです。もし闘争心を放下すれば、我々は必ず分かります。「修煉者の考え方は常人と違います。修煉者は常人の利益を求めません。我々は常人と口喧嘩をするとき、我々は常人の次元に落ちたのです」

 時間に対する執着を強烈に持っているとき、きっと緊張した恐怖な状態で、「親と共に散歩するのは時間の無駄だ」、「家の仕事をする時間がない」と思うでしょう。実は、これは時間に対する執着で、不当に時間を節約することです。こういう心境でたとえ親に付き添っても、親は文句を言うのです。家の仕事をしても、家族は不満を言うのです。なぜなら、真剣にしていなかったのですから。もし時間に対する執着を放下すれば、きっと落ち着き、穏やかで、完璧にできます。

 恐れる心を持っているとき、既得利益、目の前の幸せ、今日の安逸が失ってしまうのを恐れるのです。現在持っているすべては我々が前へ進む負担や面倒になってしまいます。前へ進むと、目前の利益を失うことを恐れ、前へ進まなければ、次元が上がらないことを恐れるのです。恐れるとき、自分を邪悪の下に置くことに等しいのです。恐れるとき、勇気や正念がなくなります。大法弟子は使命を達成し、誓約を果たすことを目的とします。我々は勇気を持って生命を守り、衆生を救い済度する神聖な責任を持ち、衆生の苦難や安危を意識できれば、恐れる心は自然になくなります。宇宙の安危、衆生の存亡を前にして、自分のわずかな利益は取るに足らないほどで、何ものでもありません。

 自分の真理に固執し、偉そうに周りの人々を下見している時、自分を他人の上に置くことに等しいのです。「彼は頭が悪い」、「この人は根基が悪い」、「この人は何でもない」と思い、自分への評価が高すぎ、他人への評価が低すぎるのです。ひいては自分が美しい花だ、完璧だと思い込んでしまいます。これは冷静ではなく、慈悲心がないのです。このまま行くと、人を傷つけ、自分にも危害を加えることになります。実は、表面的に鈍いことや頭が悪いことは、必ずしも次元が低いとは言えません。自分が正しいとばかり思うのは自分の心より生じた魔であるかもしれません。修煉者としては、誇り、慢心、有頂天になることを避けねばなりません。謙虚で、恭しく身の回りのすべての生命を尊重すべきです。

 2009年4月11日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/4/9/198639.html