自惚れは、修煉の大敵 文/海外の大法弟子
(明慧日本)最近、やっと自分の心の奥深くに隠れている常人の心に気が付きました。たとえば大法を実証することにおいて、表面上では法を実証し衆生を救い済度しているように見えるのですが、実際には自分の才能を見せびらかそうとしています。表面上では、いかにも堂々としているように見えても、潜在意識の中に、自分がいかにすばらしく、抜きん出ていると思い、自分の言動の中に、このような全ての類の思いが存在しているのです。長い年月にわたって修煉している私ですが、この問題に対してはっきりと分かっていなかったこと自体に驚いています。
自分が常人の事を行うときはなおさらそうです。このような考えと習慣で大法の事をすると、自分を実証することになります。同修と上手く協調できず問題が発生した場合、自分の内に向かって探すことをせず人のせいにして、自分の非を認めないことなども、これらの心理状態と関係があると思います。なぜかと言うと、自分の言動の中にもともと先入観があり、自分が人より優れているという考えが先に浮かんでくるからです。
こういう考え方で大法の事を行うと、自分が良くできていると思い、人は自分より劣っていると思う自惚れがふくらんできます。人とトラブルが発生した時や、意見が異なる時に、不平に思い、ぐずぐず言ったりして、いろいろな理由を探して自分のために弁解し、自分が正しい、人より優れていると主張したがります。こうすると、大法弟子として事を行う時、同修と協力し合う中で大きなマイナス要素になり、自分の修煉状態にも大きな障碍を与えてしまいます。
学法を通して次のことがよく分かりました。我々がいかによく修めていても表面上は人間であり、すでに修めた部分は表面とは隔離されており、その一面は聡明だとしてもこれは人として最低の考え方に過ぎません。頭が良いことは悪いことではないですが、修煉者としては理知を持つべきで、自己満足や自惚れる心があってはいけません。そして、自分の小賢しさを意識しすぎて、大法の教えに従わず全て人心で物事を考え、大法弟子として持つべき心よりも大事にしたならば、師に遵って法を正すこと、衆生を救い済度すること、自己修煉の全てのことに歯止めをかけてしまいます。
続けて学法をし、心を静めて大法に円容し、法に照らして、真に内に向かって探し、しっかりと自分を修めてこそ、常人社会に染まらず、大法弟子として行うべき事を行う事ができるのです。自分をしっかり修めなければ、師に遵って衆生を救い済度する事ができません。このような経験と失敗がたくさんあります。
自分の感想を書き出して同修と交流し、皆さんと一緒に注意し合いたいと思います。不足のところをご指摘ください。
2009年4月14日
(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2009/4/1/198163.html)
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