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尊師が按排した道をきちんと歩む(一)


文/湖北の大法弟子

(明慧日本)私は大法を修煉して既に13年になります。偉大な尊師の慈悲な加護がなければ、同修たちの関心と助けがなければ、今日まで歩んで来られなかったかもしれません。道中、成しとげた喜びもあれば、身にしみた経験や教訓もありました。よろよろとではありましたが、尊師に対する正信、学法と心の修めに頼って歩んできました。身にしみて感じたのは、尊師が按排された法を正す道を歩めば、より着実に、道がますます広くなるということです。

  一、しっかりとした見解を持つ大法弟子になる

  小さい時から、私は家父長制の家庭の中で育てられて、家の万事は祖母1人が決めていました。父は孝行息子で、母はとても善良で自分の考えがなく、私は末っ子で、私の人生は学校から学校までしかありませんでした。これらの原因で、私はきちんとした見解を持たない人間になってしまいました。この欠点はその後の修煉にまで影響を及ぼしました。

  個人修煉の期間中、私は指導員を担当したことがあります。初めの頃、どうすれば良いかが分からないため、他の指導員と心性上の摩擦が発生したことがありました。本当の原因は依存心があり、自分で物事を決める勇気がなく、当時は周囲の人が手伝ってくれないという理由で他人を責めていました。この執着心は当時からずっと取り除かれていませんでした。

  1999年7月、中国共産党が大法を迫害し始めたので、私はたくさんの同修と一緒に省政府に行きました。しかし、環境がますます劣悪になると、どうしたらいいのかが分からなくなり、回り道を歩んでしまいました。しかし、大法は放棄しませんでした。中国共産党がやりたい放題に大法に泥を塗って、悪辣に尊師を攻撃していた時、心の中はとても辛く、本性の面が私を促しました。尊師の正義を返してもらうため、世間の人に大法の素晴らしさを教えるため、必ず上京しなければならないと 。

  この気持ちがますます強くなった時、ある指導員に会いました。私は「私達大法弟子は上京して陳情に行くべきです。大法のために公正な道理を訴えるべきです」と言いました。ところが「役に立ちませんよ! 江××が過ちを認めることはあり得ない。共産党は過ちを認めたことがないでしょう?」と、この指導員に言われてしまいました。私は急に陳情に行く積極性が消え、自分の見解がなくなり、相手の言ったことが正しいかどうかを大法に照らして正誤を判断することさえ忘れてしまいました。

  その期間中、苦悶と迷う気持ちを言葉で表現できず、夜によく2種類の夢を見ました。1つは、自分が飛んでしまうような速い列車に乗っている夢です。その「ごろごろ」という音は今思い出しても依然としてその気勢に震撼させられます。不思議なのは、この列車は現実のレールがなくても、ちゃんと速く走っていることです。私は何故か途中下車しました。列車の走る音はだんだん遠く去っていきます。もう1つの夢は、自分が高い所へ登っていて、最後の1歩がどうしても上がれず、足がぐったりして力が入らない夢でした。

  当時はどうしてこのような夢を見るのか分かりませんでした。2000年6月、経文『円満成就に向かって』を読んでから、やっと十分に固い意志ができて天安門広場へ行きました。法を正す修煉の中に本当に溶け込んでから、あの2つの夢に含まれている意味をやっと理解することができたのです。これは尊師が繰り返しこの意気地のない弟子を教化されていたのです。早く出てきて法を実証しなければ、法を正す道には参照がありません。自分の道を歩みださなければ!中途半端にしてはいけない! 自分を信じることでした! 尊師は経文の中で説かれました。「一人の大法弟子が歩む道は一つの光輝く歴史にほかならないもので、この歴史は必ず、自ら悟って実証したことで切り開くものなのです」(『精進要旨二』「道」)しかし、その時の私は悟れなかったのです。もっと早く出てきて大法を実証することができませんでした。

  似たような経験はまだたくさんあります。毎回の教訓を経てから、学法と交流にて、私は次第に成熟していきました。以前は自分が何か悟って実行しようとする時、いつも自信がなく、必ず誰かに肯定されなければできませんでした。後になって分かったのですが、それは自分に対して自信がないということです。この自信がないということの本質は、実は、尊師と大法を信じていないことから表れてきたものでもあります。なぜ大法に照らして判断しなかったのでしょうか? 神が定めた道ならきっと最後まで歩みます。法理上で明確にして、固く信じる大法弟子であれば、決して外部の正しくない、いかなる妨害にも動揺しないはずです。たとえその妨害が大法弟子の内部から来たものであったとしても。

  『2007年ニューヨークでの説法』の中で尊師は明確に教えておられます。「ですから、私はいつも大法弟子にも言っていますが、自分が何を行なっているのかを自分で分かっていなければなりません。他人の意見を取り入れることができますが、歩んでいる道が正しければ、ぐらつかないようにすべきです」

  これらの法理を分かってから、同修を助ける時も、真相を伝える方法を選ぶときも、大法弟子の安全に注意する面などで、もう同修の顔色や他人の態度を取捨選択の基準としなくなりました。大法を判断の基準として、間違えば訂正し、正しければ堅持して、もうぐらつきませんでした。

  (つづく)

  2009年4月15日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/1/3/192842.html