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尊師が按排してくださった道をしっかり歩む(二)


文/湖北省の大法弟子

(明慧日本)

 二、心には衆生を想い、大法を大と為し内に向かって探す

 法を実証し始めた時、盲目的に人に習って、衝動にかられ、理性が不足していたので、自分にとても大きな関を招いてしまいました。いくつかの執着心を見つけましたが、徹底的には取り除いていませんでした。真相が分からず警官に騙された家族が、私に対する迫害に協力したため、心の中で恨みが満ちました。出獄してから、私は警官と家族を防備し、彼らをすべて悪と見なして、彼らと対立し始めました。家の事について、私はいいかげんにしていました。家で起きたすべての問題を法を実証することの妨害と見なし、すべてを捨てて、法を実証することだけをしたいと思っていました。こんな自分をとても意志が固くて精進しており、常人に束縛されていないと思っていました。このような状態の下で、旧勢力の邪悪な試練が始まり、私の夫婦関係に危機が現れました。

 最初は、私が夫婦の情を放下できるかどうかの試練だと見なしていました。これは難しくありません! せいぜい家出をして独り暮らしをすればいい、そうしたらもっと多くの時間をかけて三つのことができるではないか、などと考えていました。出獄する前、私はかつて非常にはっきりとした夢を見たことがあります。夢の中で、私は離婚しました。私の態度はとても度量が大きくて、良い人を探し当てることだけを望みました。私は街頭に現れ、布団を敷いて街頭で寝ます。しかし、私は何度リュックを背負って出て行っても、必ず家戻りました。私はこのようなやり方が果たして正しいかどうか分かりませんでした。学法をして、大法に照らし合わせてみると、このやり方は法を実証できていないだけではなく、かえって私の情況を知っている人に、大法弟子が家族を捨てるという共産党の中傷を一層信じさせるだけであって、もし同修達が皆このようにすれば、いくら真相資料を配っても、人を救えないと気づきました。離婚の夢は旧勢力が按排したので、私は認めません! 大法弟子は何一つないままで法を実証してはいけません。

 事態がますます深刻になっても、私は内に向かって探しませんでした。また、何度か怒りで爆発しましたが、「忍の限界」だと言って自分を覆い隠しました。大法に損失をもたらしたくないという思いで、最後に仕方なく内に向かって探しました。なんと本当にたくさんの執着を発見しました。一つ目は、私は大法を実証する中で、多くの理性的でない行為で家族に大法を誤解させました。二つ目は、法を実証することを口実にして、尊師の要求通りに最大限に常人の状態に合わせて修煉しておらず、彼らに大法のすばらしさを感じさせませんでした。三つ目は、自分が遭った苦しみを、人が人に対する迫害として、常人の道理で対応していたので、当然のこと常人の恨みが生じてきて、心に善意はなく、大きな寛容さも不足しており、人を救うことができるのでしょうか? 警官らと自分の家族は皆、他空間の邪悪にコントロールされて騙されているので、とても可哀相なのです。私は自分が傷つけられたことだけを考えてはいけません。真相を伝えて、彼らを救い済度しなければなりません。

 これらの執着心を見つけたら、努力して取り除き、心が大分穏やかになって、容量も大きくなったのを感じました。心性が向上するに連れて、夫婦関係の危機も消えてなくなり、家族も大法に対する見方を変えました。

 三、根本から旧勢力の邪悪な按排を否定する

 中国共産党が大法を迫害する前は「一触即発」の日々で、同修と交流する時、みんなが大法の修煉を堅持すると表し、私は「私を監獄に入れても、修煉します!」と言いました。堅持して大法を修煉すれば迫害されるということを、当時のほとんどの修煉者は当然の事だと思っていました。そのため、多くの場合、知らないうちに旧勢力が按排した道を歩んでしまいます。

 2000年7月、私は清浄な心で、天安門広場で煉功していた時、何事もありませんでした。しかし、何もしていない自分は、不法に連行、拘禁された同修に及ばないと思ってしまい、その後は私も不法に連行されて拘禁され、また一連の面倒を招きました。2000年末、北京へ行きましたが、連行されて殴られました。でも当時はすでに、連行され拘禁されてはいけないと認識していたので、尊師が按排していただいた機会に脱走しました。不法に連行、判決を下された同修がどうしようもなく承認したのを見て、このような現象に対して、私は同修と交流する時「もし捕まっても心配しないで、正念が強ければ、きっと尊師の按排の下で脱走できます」と、特に強調して言いました。スローガンを貼っていた時に捕まえられましたが、私は警官に従わず、最後には夜中に脱走できました。

 これらの経験により、私は迫害に反対するのは悪くないと思いましたが、心は晴れませんでした。法を学び、交流文章を読んで、旧勢力の迫害を認めてはいけないとやっと分かりました。自分は見たところ悪くないのですが、実際は、迫害を受け入れたから迫害をに反対しているのであって、本当に尊師が按排してくださった道を歩んではいませんでした。

 旧勢力の迫害を認めないという事に対して、尊師は1999年5月23日、トロントの『カナダ法会での説法』の中ですでに明示しておられます。「弟子:もしある日、弟子が破壊される対象となったら、どのように法を学ぶのでしょうか? 師:如何なる情況下でも、確固として大法を修めればいいのですが、どうして人に破壊されるということを考えているのでしょうか?修煉者として、周りに、或いはしばらく経ってから、どんな事が起きたとしても、よく分析すると、それなりの道理があるのです」この部分の説法を何回も読んでいましたが、悟れませんでした。旧勢力はかなり邪悪で、しかもよくあなたの考えの深い所に手を下し、あなたに認めさせます。たくさん学法して、法理に対してはっきりしていなければ、邪悪のやりくちを見抜きにくいのです。

 ある日、私は街で知人に会いました。彼女は私の情況を知って、真相を聞いてから、「今後もし警官らがまたあなたを探し当てたら、そんなにまっすぐした固い態度で対処しないほうがいいです。そうしたらあなたと家族は苦しまずに済みます」と彼女に言われました。私は以前と同じような態度で断固と否定しましたが、彼女は繰り返し言ったので、私は急に気づきました。これはおかしいです! 私が彼女の話の回答を受け入れた時、すでに旧勢力の按排を認めたのではありませんか? 今後、警官が私を探し当ててもいいと認めることになります。本当に狡猾です! これは彼女が言っているのではありません。旧勢力が彼女の口を借りて私を誘い込んで騙そうとしているのです。本当に危なかったのです! そこで、私は笑顔で疑われる余地のない口ぶりで「ありがとうございます。でも、あなたの言っている、また私を探し当てるという事は根本から存在しません!」と返事をすると、彼女は少し驚きましたが、もうそれ以上私を勧告しませんでした。それ以来、迫害を認める念頭を否定して、一念、一念に注意するようになりました。迫害を認めない、と思うと、迫害も本当に発生しませんでした。

 「もちろん、全ての大法弟子は皆、旧勢力の按排を認めないと言っていますが、それは口で言うことではなく、大法、法を正すことの要求にしたがって行えば、歴史上按排した全てを認めず、旧勢力そのものをも認めないことになります。正念が十分であれば、それを排斥することができ、それらの按排を否定することができます。(拍手)なぜならば、私たちは決してそれらを認めてはいけないからです」(『各地での講法二』「2002年米国フィラデルフィア法会での説法」)

 同修達も、自分のそれぞれの一念は大法の基準に合っているかどうかを厳しく見比べて、そうして初めて、根本から旧勢力の按排を否定することができ、尊師が按排していただいた法を正す道をしっかりと歩めるのです。

 (完)

 2009年4月16日

(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2009/1/3/192842.html