日本明慧
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「自己を放下する」ことができるようになった


文/大陸の大法弟子

(明慧日本)修煉者は、「忍」が必要で、他人に寛容でなければならないことはわかっています。私も慈悲心を持ちたい、師父が言われたその和やかさを修煉して得たいのですが、狭い枠の中にいるようで、身体を回転することもできず、なおさら他人に対して寛容になる事ができません。私が現在できる「忍」は、常人のように涙を浮かべて我慢するわけではないのですが、平然として喜捨することができる「忍」でもありません。「忍」というより、むしろ「逃げる」「避ける」という状態です。砂漠の中のラクダのように、嵐が来たら、急いで砂丘の中に入って頭を隠し、嵐が過ぎたあと、頭を出します。表面上は何事もないようですが、実は、自分の心は少しずつ萎縮し、緊張しています。修煉すればするほど、容量が大きくならず、先が明るくならず、世の煩わしいことを避けて、清い福を享受しようという考えがありました。

 先日、私は同修との間にトラブルが起きましたが、やはり論争などはなく、表面では「和やか」なようでとても平和的でした。しかし、私の心は緊張していました。今回は、避けないで、直接トラブルに向けて自分の問題を探し当てようと決心しました。

 まず、「良く協力しないのは自分のせいだ」という認識を私は明確にしました。しかし、この認識を明確にしたことで、私の思想は酷く妨害されました。「私のどこに問題があるの? 彼女の要求は酷すぎるのではないの? なぜ彼女はもっと仕事をしないの? わざと私を困らせているではないか?・・・」などのつらい思いや怒りが噴き出しました。これらの不満を一つ一つ紙の上に書き、繰り返し読んだ結果、これは「私は傷つくことや損失を受け入れたくないのだ」と、やっと分かりました。自分の良心にも尋ねてみました。「このくらいの傷つくことや損失に耐えられないのなら、『殴られても殴り返さず、ののしられてもやり返さず』などはなおさらできない。相手に足りないところがあってこそ、私の『忍』が必要で、協力が必要だ。もし相手が仏のような境界で、何のミスもなければ、私に『忍』の必要があるだろうか。相手に不足があるとき、私は争ったり、闘ったりしないで協力する、これこそが寛容だ、これこそが『忍』なのだ」

 笑われるかもしれませんが、私の生涯で初めて「寛容」とはなにか、なぜ修煉者として「忍」が必要なのか初めてわかりました。

 次の問題は、如何にして「忍」ができるのか。このとき、私の思想はまた妨害されました。「忍は自分の身を隠すことだ。彼女が言ったことが一番よいわけではないのに、そのまま従うと、迎合することになるのではないか」などの考えが噴き出しましたが、今回、私は古い観念に逆らってその妨害を取り除こうと決心しました。「計画が完璧であるかどうかは重要ではなく、肝心なのは心性が正しいかどうか、自己を放下できるかどうか、協力できるかどうかの問題だ」。彼女の方法に従ってやってみると、驚くことに、確かに行えるのです。ある意味で言えば、同修の意見のほうがもっと良いのです。

  では、はじめの時、なぜ同修の考えを聞いて、すぐ反発したのでしょうか。内に向けて探すと、同修に従えば、自分がもっと奉仕しなければならず、自分の習慣を変え、自分のスケジュールを変えなければならないというのが原因です。なるほど、協力できない根本的な原因は、自己に執着していたのです。自分の考えがどれほど良いかではなく、ただ自己の考えに執着していただけなのです。振り返って見ると、大法のことであれ、常人のことであれ、ある方針ができたら、私は必ず「自己」を用いて測り、必ず皆の意見と一致していませんでした。会社の上司にも言われたことあり、「かれは偉すぎる、私は彼をリーダーにできません」。自分は確かに偉いとずっと思っていましたが、現在、それは利口ぶっているだけで、本当は馬鹿なのだと分かりました。数年修煉していても、この面ではまだ全く常人のようでした。

 師父は『2002年米国フィラデルフィア法会での説法』で神が共にことをしているときの状況について説法されました。「それでは、彼らの心はどういう状態なのでしょうか? それは寛容であり、非常に洪大な寛容であり、他の生命を受け容れ、本当に相手の立場に立って他の生命 のことを考えてあげることができます。これは多くの人が修煉の過程でまだ到達できていないことですが、皆さんは徐々にそれを認識し、到達しようとしていま す。ある神がある方法を提示した時、彼らはそれをすぐに否定し、自分の方法を示し、自分の方法が最も良いと言うのではありません。彼らは他の神から出された方法の最終結果がどのようなものなのかをまず見るのです。道が異なり、一人一人の道も異なっており、生命が法から悟った理は皆それぞれ違っていますが、 結果は同じかもしれません。ですから、神たちはまず結果を見るのです。到達する結果を見て、本当に達成したいところまで達成することができれば、それに同意します。神はこのように考えています。更に、足りない所があれば、無条件で黙々とそれを補い、圓満させます。神はこのようにして問題に対処しています」

 師父のこの説法は何度も拝読していましたが、今日やっとはじめて「寛容」がわかり、「自己を放下する」ということも分かりました。いままで自己の執着にしがみついていたのは、安逸を求め、師や法を真面目に信じていなかったからです。これらの理を分ってから、「すみません」と同修に言いたいのです。師父にも「申し訳ありません」と言いたいのです。師父の啓示に感謝いたします。今後、私は必ずきちんと行い、自己に固執せず、同修とよく協力し、誓約を果たします。

  2009年4月18日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/4/12/198826.html