日本明慧
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真修の弟子になる


文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)時間の過ぎるのが早すぎて、一年また一年が過ぎ去り、法が人間界を正す時間は近づいてきています。しかし、自分の精進できていない状態が続いていて、三つのことをどれもしっかりと行っているとは言えません。私がちょうど発見したばかりのいくつかの執着心を書き出すことで、この執着心を暴露し、取り除きます。同時に今後、三つのことをしっかり行うように自分にも言い聞かせたいと思います。

 一、自分が歩んだ道を改めて反省してください。誠実に修煉してきましたか?師父の慈悲なる済度に対して顔を向けることができますか?自分に期待している衆生に対して顔を向けることができますか?彼らの生命に対して本当に責任を負っていますか?解答は否定的です。師父のおっしゃった通りにし、精進し、さらに精進しなければならないと心の中では分かっています。しかし、常人社会と接触すると我が道を行くことができず、まったく自分が修煉者ということも思いつきません。話の内容や言葉遣い、挙止、表情や態度全てが修煉者のあるべき状態ではありません。考えると、おそらく今現れている一番大きな執着は安逸を求める心です。リラックスした状態が最も心地良く、常人と一緒にいる時、のんきに過ごしています。一日また一日が過ぎて、このような心によって1人の修煉者が世間に溺れ、壊されます。これは邪悪が人をダメにする最も直接的で最も速い手口なので、この執着心を早く取り除かなければ、後の結果がどんなに恐ろしいか分かりません。

 二、小さい時から惰性ができており、どんな事でも最後にならないと焦りません。たとえ最後まで来ても、また奇跡が現れることを待ち望んでいます。法が世間を正す時、師父は私を上に連れて行って下さることができるかもしれません。結局、師父について世間で法を正すことをしなければなりませんが、たくさんの事をやっていなくても、少しはやっているでしょう。師父はとても慈悲深いのです。いつも私を放棄なさらないので、師父と弟子になった縁を見て、自分を上に連れて行ってくださるはずです。これは典型的な中共邪党の文化です。一つの事を成り立たせたい時、自分の努力によらず「コネを使い」、「裏で取り引きし」、「条件を言うこと」に頼ろうとします。正法には基準があり、新宇宙の円容不滅のために責任を負わなければならず、上記の考えは師父に対する大いなる不敬であることを忘れていました。師父の慈悲に対して、大切にせず、人間の情を持って修煉に替えようとしています。これでは何も得られないことが分かるでしょう。

 三、私個人のためなら、外にいる時に誰にでも全て礼儀正しく、常人の我慢の忍(修煉者の忍ではありません)もできます。メンツを重んじる心があり、他人の機嫌を損なうことをしたくないので、人に「この人の性格は本当に良くて、カッとすることはありません」と言われます。家に帰ると常人の我慢もできず、ちょっとした瑣末な事で家族の間で損得にこだわり、少しも譲りません。「これはあなたのためです。私が言った事は全て正しいので、必ず私の言った通りにしてください」と言います。そうすると家では激しく怒ってもまだ、ずっとこの偽りの私を放下しないのです。実は、自己に固執しており、どんな事でも全て自己中心にしなければならず、全てこの「私」から跳び出していません。偽りの修煉をしているのです。

 四、修煉をするのに条件を付けます。自分の気持ちが良く、体がとても心地良いと感じている時は難関を突破したくて、乗り越えやすいのです。法もたくさん学びます。しかし、全身が不快で、気分が悪く感じた時は忍と善を言わず、難関も乗り越えたくありません。これらの考えが真修できない原因になったようです。快適でないことは心性を高め、執着を取り除き、心をより広くする良いチャンスだと考えることを忘れたのでしょうか?師父は次のようにおっしゃったことがあります。「絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」(『転法輪』)しかし、私は執着心を修めて取り除きたくないだけではなく、かえって、それを助長していました。

 これらの執着心を列挙してから、修煉して精進できない原因が分かりました。本当に法を学んでおらず、内に向かって修めず、誠実に自分を修めていません。表したのは全て他人に「見て!私は修煉しています」と知らせるためなのです。本質が変化していないのに、何が修煉と言えますか!私は師父のおっしゃったような「うわべだけ」の人と同じです。しかし、私はただの学習者と見なされ、師父の弟子とは見なされないようにはなりたくありません!まるで修了証明書と卒業証明書の違いのようです。修了証明書はあなたがただ学んだことがあるだけだということを証明し、卒業証明はあなたが勉強して基準に達したことを証明しますので、随分かけ離れています。

 私は、師父が何度も法を正す時間を延長されているのは、もっと多くの世の人々を救いたいだけではなく、私に似ているような「うわべだけ」の人がいるからで、私達の体系内に対応する計り知れなない衆生がまだいるからだと思います。早くこれらの執着を放下して、たくさんの法を学び、自分を多く修めてやっと、私達に対して無限の大きな期待を託されている師父と衆生に顔向けをすることができます。私は真修の弟子になります。

 自分の修煉はあまりに欠けていたため、交流文を書きたくても、何を書けばよいか分かりませんでした。しかし、書かなければいけないと思い、この執着心を暴露した文章ができました。師父が私達にこの交流環境を作ってくださったことに感謝いたします。「学んで比し修して比す」(『洪吟』)ができ、互いに励まし合い、最後の法を正す道を歩み終えましょう。師父に感謝いたします!同修に感謝いたします!必ず師父に付いてもとの家に帰ります。

 2009年4月24日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/4/20/199252.html