日本明慧
■印刷版   

同修にも、自分にも正念で対処する


文/大陸の大法弟子

(明慧日本)ある日、私は家族(同修)と交流している時、家族は遠慮なく私の欠点を指摘しました。初めはそうではないと否認しましたが、どんどん心のバランスが崩れてついに言い争いになりました。最後に、私は怒りながら「もう修めない、私が修めなければあなたには関係ないですよね」と話しました。数年来、こんな衝突が何回もあり、話した後はすぐ後悔しながら直しましたが、これが大きな問題であることに気付きませんでした。

 最近、同修とこの事について交流しました。同修は驚いて、「何ですって! もう煉らない? そんなことを口に出したのですか? ある同修が関を乗り越える時、双方が言い争い、同修はふてくされて『もう煉らない。関係しないでくれ』と話しましたが、傍にいる天目が開いた同修はハラハらと涙を流しました。彼がこのことを口にした後、多くの邪悪が迅速にこの話を言った同修の周りに集まったのを見ました。これは邪悪が欲しがる話だからです。その後この同修には絶えず関が生じて、もう少しで修煉を止めるところだったのです」

 何故この一言がこんなに大きな魔難をもたらしたのでしょうか。法の中でも分かるように、話を大げさにすると佛さえも驚きます。旧勢力の大法弟子に対する迫害は如何なる機会をも見逃さず、しっぽを掴んだら放しません。旧勢力が欲しいのはちょうどこんな話なのです。当時われわれが話す時、本心ではないときにも、旧勢力はしっぽを掴んでこんなふうに話します。「これはお前が言った話で、これはお前の選択だ。煉らないとわれわれはお前を大法の群れから引っ張る。あんな話をした人に、あの心は本当に煉らないのかどうかを試す権利がある」 私はこの話は単なる「口を修める」問題ではなく、修煉者の観念が根本的に変わっていないことがもたらした問題だと分かりました。何故邪悪が洗脳班と労働教養所で、大法弟子が「煉る」と言えば迫害し、「煉らない」と話すとすぐ釈放するのでしょうか? 修煉者として、これは、恥なのです。だから、私達は同修との心性の関に遭って乗り越えられなくなった時でも、こんな話をしてはいけません。邪悪に如何なる隙をも与えてはならず、どんな時でも正念を強くもつべきです。

 私は周りの同修の事を思い出しました。7月20日邪悪が迫害を始めた時、彼は北京で法を実証して帰りました。家族は「警察官はあなたが大法の本を引き渡すようにといって、刑事警察、派出所、国家安全局の人があなたを探しました。今回はおそらく渡さなければならないでしょう」と話すと、同修は大声で「渡さない、命を渡しても大法の本は1冊も渡さない」と話しました。

  家族は「よければ、貴方が顔を出さずに私が貴方の代わりに渡したらどうですか?」と聞くと、同修は厳しく「家族の誰が大法の本を渡すことも、認めない」と話しました。これは彼の心の底から出た最も震撼力を持つ一言で、これは同修がその次元に達したからです。おかしいのは、その後邪悪は二度と同修の家に来ませんでした。同修はそれからの修煉の道でこの方面の試練は非常に少なく、関と難も他の同修と比べて少なかったのでした。何故でしょうか? 彼のこの話は、邪悪を震撼させるに十分で、大法弟子の基準に達したからです。これはかつて「煉らない」と言った私とどんなに大きな差があるでしょうか?

 自分では、自分は大法に揺るがないと信じ、もう煉らないという考えはなかったのですが、何故、関に遭ったとき、こんな言葉が出てきたのでしょうか。私の「人」の観念が根本的に変わっておらず、大法に対する確固とした心が足りないからだと認識しました。こんなに人の観念が変わっていなければ、同修に良くない状態が現れた時に、それが表われます。例えばある日、同修と交流するとき、ある同修が常軌を逸して、長時間話したのに何を話したのかはっきり分かりませんでした。この同修が帰ってから、私は「この人は理智がはっきりしておらず危ない」と話しました。他の同修は「そんなふうに話してはいけない。彼に人心が多いのは確かですが、彼が師父に従って良くなることを信じるべきで、私達は彼に正しい場を造ってあげなければなりません。法が大きいので、きっとあらゆる人を済度することができます。私達さえも彼が危ないと話すと、邪悪はきっと喜ぶので、その結果彼が本当に危なくなるかも知れません」

 私は修煉の中で人の観念を変えることは非常に難しいと感じました。毎日法を勉強していますが、法に則っていない話を常に口に出し、甚だしきはそれが習慣になりました。例えば、ちょっと大きい関を乗り越えられない時、心から「私には、これが出来るのか?」とか、同修の強い人心を見た時は「彼は駄目だ」と口にします。実は自分が見た一切を正念で対していませんでした。同修の如何なる「悪い」表現でも、彼の心がまだ大法の中にいれば、彼が大法に戻りたいと考えれば、師父と大法はきっと彼を済度することができます。これは大法の威力で、師父の威力なのです。歴史が今日まで歩んできて、未来の人と神々は残った歴史の中でこのことが分かります。この生命が大法修煉の中で「しまった!」という状態が現われる時、大法が彼をどのように済度し、師父がこの生命に何を与えられたのかわかるのです。師父には出来ないことは何もありません。もう、正法の最後に至りましたが、同修に見えるのは依然として表面的な「人心の表れ」です。同修達よ、このような人心が表した「うわべの現象」を重んじることなく、正念で自分に対し、同修に対するべきです。

  2009年5月2日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/4/21/199333.html