なぜ涙を流したのか?
(明慧日本)私は容易に涙を流す人ではありません。ある知人の追悼会は悲しみに溢れていました。人々は涙を拭いていました。クラスで一番わんぱくなクラスメートでさえ、顔が赤くなり、喉がかれていました。私は涙を流さないようにずっと我慢しました。映画を見る時、悲しい場面で周りの人が涙を流しても、私は涙が浮かぶだけで流すことはありません。
法輪功の修煉を始めてから、師父の国外での説法ビデオの中で師父が現れた瞬間、私は自分に対して何度か繰り返しました。「これこそ私の師父です!」
説法はまだ始まっていないものの、私はなぜか涙を流していました。激動されたのでしょうか?しかし、心の中は静かなのです。涙だけが止めることができず、流れているのです。
去年、『神韻公演』のビデオで、黄碧如さんの歌った『真相を理解する』を聞いて、彼女の歌に感動し、涙を流しました。率直に言えば、歌詞には情が含まれていません。彼女自身も感情で観客を集めるのではなく、すべての心身を尽くして歌詞の内包を表現しているのです。その時、私は『慈悲』の意味が分かり、修煉者の純粋な心は美しい歌を歌う前提と基礎になることが分かりました。彼女は自分の生命から歌っています。心から出た声で人々に真相を伝えています。
私は初めて『神韻』を見て、涙を流しました。後で再度『神韻』を見るときも涙は止まりませんでした。非常に平和的な日常生活を表現した舞踊を見ても、涙は取り留めもなく流れるのです。
私自身も不思議に思っていました。いったい何が私を動かしているのでしょうか?公演自体には感情の起伏がありません。人の純粋さ、春の喜び、江南の美人、少数民族の風俗などを表現しているのです。しかし、これらの演目を見てなぜ涙が流れるのでしょうか?よく考えてみると、人を動かすことができるのは感情ではなく、きれいな心だったのです。
今晩、『新唐人』で、世界各国の修煉者が4・25記念活動を行っている場面を見ました。なぜか私はまた涙を流しました。デモの隊列には、鼓を打つ人、トランペットを吹く人、手に『転法輪』をあげている人、煉功する人などのさまざまな修煉者がいました。これらの修煉者の隊列は世人の長い間閉じ込められていた善の心を蘇らせました。
今日私は、法輪功修煉者の楊森さんが「Martin Luther King記念集会」で演説する場面を見ました。現場の多くのアメリカ人が彼の『私には一つの夢があります』のため、拍手をしていました。しかし楊森さんは、激しい言動はせず、非常に穏やかな語調で、静かに自分の夢を語っていました。
私には、中国に住む全ての人々が、思想の自由を得て、深遠な思想・理想のために、迫害(拷問、不法拘束、尋問)を耐え忍ばなくてもよい日が来るという夢があります。
私には、中国に住む全ての人々が、宗教の自由を得て、信仰のために、不法に刑期を言い渡され、生命を剥奪されるなどの迫害を受難しなくてもよい日が来るという夢があります。
私には、中国の法輪功修煉者が、警官に殴られることなく、公園で朝の煉功を行える日が来るという夢があります。
私には、娘が中国に戻り、法輪功に対する信念からではなく、娘の性格から人々に判断してもらえる日が来るという夢があります。そしてマーティン・ルーサー・キング牧師は、このような演説で結ばれました。
「このすべてが現実となった時、我々は自由の鐘を鳴らし、小さい村や、すべての都市と州にまでその音が響くようにします。我々はその人たちのために前へ歩き、すべての上帝の子供、黒人と白人、ユダヤ人と非ユダヤ人、カトリック教徒と非カトリック教徒などのすべての人と手と手を繋いで、古い黒人霊歌の言葉を共に歌える日が瞬く間にやってくるのです。『自由になれた。自由になれた。全能の上帝に感謝します。私たちはやっと自由になりました』」
楊森さんの公演を見ながら、私はずっと涙を流しました。法輪功修煉者は平和、善良、寛容、忍耐と慈悲を通じて、世界を感動させることが出来るでしょう!
2009年5月4日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/5/1/200009.html)
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