日本明慧
■印刷版   

念が正しくなると、すべてが変わってくる


文/黒竜江省の大法弟子

(明慧日本)私は法輪功を修煉して1年足らずの新しい大法弟子です。修煉時間は短いですが、とても多くのことを体験し、考え方もとても大きく変わりました。

 私が法輪功の修煉を始めたその日から、家の雰囲気はとても厳しくなりました。夫は長い間、邪党に洗脳されてまったく無神論者でした。それに、彼はそもそもとても頑固な性格だったので、自分の考えが必ず正しい、自分が最も冷静であると思い込んでいたため、私が法輪功を修煉することに対してまったく理解できませんでした。私たちは結婚して6年経っていましたが、彼は私に手を出したことが一度もありませんでした。しかし、修煉を始めた当初、私はほとんど毎日罵られ、殴られました。ひいては洋服を引っ張られてぼろぼろになり、髪の毛を引っ張られて外に投げられることもありました。ある日、彼はまた私を家の入り口まで引っ張っていき、外に投げようとしました。私は心の中で師父に、「師父、彼が私を投げられないようにしてください!」とお願いしました。また口では「真、善、忍はすばらしい、法輪大法はすばらしい!」と叫びました。彼は狂ったかのように拳を振って私を殴りました。私の目はすぐ腫れ、鼻から血も出てきました。

 法輪功を修煉する前に、家庭内暴力は私の身に起きたことがなく、私はそれを許せず、絶対許せませんでした。しかし、修煉者はそのように問題を見てはならず、修煉の道は順風万帆ではありませんでした。さらに、背後の真実は私たちの目で見たものと同じではありません。師父は『ロサンゼルス市での説法』の中で、「大法弟子は修煉を始めたその日から、あなたの人生は按排し直されたのです。つまり、あなたのこの人生は修煉者の人生となり、いかなることも偶然ではなくなり、偶然なことが現れることもありません。人生の道のりにあるすべては、あなたの向上と修煉と直接的な関係があります」と説法されました。修煉を始めた当初、私は発正念とは何か、いかに発するのか、どんな場合に発正念すべきかが分かりませんでした。後になって、同修の手助けのもとで、また自分で法を学び、『明慧週刊』を読むことによって、少しずつ問題が起きたら発正念ができるようになりました。

 発正念することはできるようになりましたが、恐怖心がとても大きく、夫の顔色が変わると私は体が震え出し、彼がまた私を殴らないかと心配しました。怖がることも求めることで、怖がればそれがやってきます。彼に殴られることを恐れると彼は私を殴りました。彼が私をひどく殴る時のその顔は邪悪で比類ないほどで、私は恐怖に覆い包まれて、発正念することをすっかり忘れていました。今振り返ってみると、まさにふらついて歩くことを学び始めた子供のように、歩けない状態から、少しずつしっかり歩けるようになりました。法を勉強してから、内に向けて探すと、私は肉体の苦痛を恐れ、また睦まじい家庭生活に憧れていました。また4歳の子供がとても可愛くて、私は家庭内に暴力がないことを望み、子供に再びあれらの暴力のシーン、父親が怒ったときのその邪悪な顔を見せたくなかったのです。他の家庭と同じく、両親が子供を連れて遊びに行けることを望んでいました。これはすべて親族に対する情、つまり執着心でした。それを放下したとき、本当に一種の物質が体から引き裂かれたような感じがしました。痛いとき、私は人間になりたいか、それとも神になりたいか、と考えます。答えはもちろん神です。それなら歯を食いしばって歩み続けるしかありません。師父は『転法輪』の中で、「わたしがむかし修煉していた時、多くの高人がこんなことを言ってくれました。『忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる。』実際その通りです。皆さんはお帰りになってからぜひ試しにやってみてください。本当の劫難に直面した時、あるいは関門を乗り越える時に、試してみてください。耐え難いものを耐えてみてください。乗り越えられそうもないと見えても、行ない難いと言われても、本当にできるかどうか試しにやってみてください。もし本当にやり遂げられれば、きっと「柳暗(リュウアン) 花明(ファミン) 又(ユウ) 一(イー)村(チュウン)」というように、眼前に新たな世界が開けることに気づくに違いありません」と説法されました。

 実際、人間はとても弱いものです。私たちが強い正念をもっている場合、邪悪も恐れて、隠れ回ります。人間の場合はなおさらです。私の修煉する過程で、夫は私の修煉を阻もうとして、大法の書籍を捨てたり、燃やしたりして、大法に対して少なからぬ罪を犯しました。一度、彼は私のバッグから大法書籍の内容の入っているMP4を見つけました。当時、私は彼がまた大法に対して罪を犯すことをとても心配し、恐れていましたが、念が正しくなければ、さらに良くない結果を招くとすぐに認識し、恐れる心を取り除きました。彼が私に自白を強要する口ぶりで聞いてきたとき、私は胸を張って、「その中に入っているのは法輪功の書籍の内容です。どうしましたか?本を読むことも罪ですか?善を修めることも罪ですか?良い人になることも罪ですか?誰がこんな邪な規定を作ったのですか?」と聞きました。主人は勢いがなくなり、口を開いたまま、しばらく何も言えませんでした。後になって主人は、「これを片づけて」と一言だけ言い残し、部屋に入りました。私は大法の威厳を目にし、正念の威力を体験しました。

 また一度、彼は腰掛けで私を殴りながら、「まだ修煉するのか」と自白を迫りました。最初は私は何も言いませんでした。すると、彼は満足のいく答えを得てないと思い、引き続き私を殴り続けました。毎回私が執着を放下すると、局面は大きく変わります。私が大声で「修煉する、殴り殺されても修煉する!」と言った途端に、彼は聞くべき答える聞いたように、勢いがなくなり、普段の状態に戻り、何も起きていないかのようになって、先ほどのことを忘れていました。

 私たちの念が正しいとき、私たちの周りの環境もすぐ変わってきます。師父は「弟子の正念足りれば、師に回天の力有り」(『洪吟二』「師徒の恩」)とおっしゃいました。

 書きたいことはとても多くあります。しかし、私は真に修煉する弟子として、歩む道は易しくないと思います。修煉体験を書くことも表面上ほど簡単ではありません。なぜなら、私がこの文章を入力する際、私は自分がすでにとても多く得たと感じ、認識が向上し、心性も向上してきたからです。まさにそうです。信じることが先で、悟ることは後、見えることも後になります。

 浅い認識となりますが、不適切な所については慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 2009年5月8日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/4/8/198606.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2009/4/27/106837.html