転んだら伏せたままではいけない、もう伏せている時間はない!
文/中国大陸の大法弟子
(明慧日本)私は早くから修煉を始めました。しかし、向上がとても遅くて、長い間1つの次元を徘徊していました。原因は関を乗り越えられないと、とても辛くて、後悔してしょんぼりするばかりで、法に照らし合わせるのではなく、ひたすら自分の過ちを責めるだけです。次の関が迫って来ているのに、私はまた自分の過失のため、悲しむ心境の中に浸って、そして関をうまく乗り越えられません。そして、また苦しみます。長く続くと自分に対して自信を失ってしまいます。
最近、私は悟りました。これは、旧勢力の罠にはまっているのです。
1人の大法弟子として、修煉中に関を上手く乗り越えられなかったら、確かにとても残念に思ったり、ひどい時は汚点だと思ったり、恥辱だと思います! しかし、このすべてはまたどうして存在するのでしょうか? 私のために存在しています。私の修煉のために存在しています。私を高めるために存在する試練であろうと、旧勢力の邪悪な迫害であろうと、すべては私にそのような心があるため、魔難があり、それがやってきた時に心性を高めるのが一番良いのです。でも関を乗り越えられなかったら、心性が高まっていけなかったら、それは私にこの心があるだけはなく、とても重いという事です。これが分ってから、私は関を乗り越えられないことを悲しむのですか、それとも法のもとで認識し、この心を取り除くのですか、と考えました。
実は、たとえ関をうまく乗り越えられなくても、正念をもって対処すべきです。修煉者ですので、もちろんここで停滞して前進しないわけには行きません。つまずいて転んだら、伏せたままではいけません。もう、伏せている時間はないのです!
よく、「大法弟子の称号にふさわしくない」とか、「同修の助けや自分を信じる心に申し訳ない」、「師父の慈悲深い済度に申し訳ない」などと聞きますが、本当にその気持ちがあるならば、立ち上がって、勇敢に突き進んで、勇猛に精進し、自分の過ちを償うべきです。
本当に補うことができない事態ならば、少なくとも正々堂々としている生命として、勇敢に自分のしたすべてに直面しましょう! どちらにしても、まだ終わっていません。あなたは修煉を積んでいるのです! あなたは師父の弟子なのです。
適当でない所はご指摘ください。
2009年5月8日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/5/4/200208.html)
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