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同修の呼び方について


文/大陸大法弟子

(明慧日本)先日私は妻と一緒に同修の家を訪れました。同修の舅さん夫婦も修煉者であり、私たちと長く付き合っていますが、迫害を受けたため長い間会っていませんでした。そこでもう1人の同修とも久々に会うことができ、とても嬉しく思いました。この同修は学歴が高く、ある有名大学の博士なので、同修達は普段いつも彼を某博士と呼んでいます。会談の中で皆一緒に三つの事について交流しました。

 家に帰ってから、先の話を思い出してみると、なんとなくその博士は非常に常人の心を持っていたような気がしました。そして博士について考えてみると、私自身も30代の男性であり、同じような問題があると気づきました。会社の中で、他の同僚は私を某工(中国語のエンジニアに対する尊称)と呼んだり、某経理(マネージャー)と呼んだり、某総(経理)と呼んだりしています。いつも違う肩書きで私が呼ばれた時、私はなるべく自分の心理に注意します。もし自分の心が動じれば、やはり自分自身がよく修めておらず、名誉を求める心があるのだと反省します。実際修煉中に、これらの心を無くすのも難しいとよく感じました。その博士に対して、私たちがよく博士と呼んだために、本人の常人の心を強化したのです。

 ここまで認識した後に、家に帰ってから妻は私に「何であなた達はいつも彼を某博士と呼んで、名前を呼ばないの?」と尋ねました。これは師父の啓示だと悟りました。

 「つまり、あなたはまず修煉者であって、しかるのち、専門家なのです。 そうであるならば、修煉者として一切の有利な条件を利用して、大法を広め、大法が正しいもので、真の科学であり、説教と唯心論ではない、ということを実証しなければなりません。 これはすべての修煉者が自らの任務とするべきことです」(『実証する』)と師父はとっくに教えられています。

 同修のためには、もし同修同士だけの場合には、やはり直接名前を呼んだほうがよいと思います。同修の常人の心を強化しないようにしましょう。如何なる博士、専門家、教授、総経理なども常人社会での役割に過ぎません。常人に大法を紹介する際には、その常人社会に相応する呼び方をすればよいのです。なぜならそれは大法を実証するためであるからです。

 以上は個人的な体得であり、皆さんと共有したいと思います。不足をご指摘下さるようお願いします。

 2009年5月9日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/4/24/199527.html