大きな執着と怒りやすい心を取り除く 文/大連大法弟子
(明慧日本)私は病気だらけで、全身に業力のあった常人でしたが、1996年に修煉し始めてから心身ともに健康で、病気しらずの修煉者に変わりました。師父に対する感謝と尊敬の念は言葉では言い尽くせません。
以前、私は短気で、気性も激しく、すぐ腹が立って修煉してもあまり良くなりませんでした。母、夫、息子さえもこう言うのです。「あなたはすべてに善い人です。ただ、怒りやすく、いったん怒り出すと、全然修煉者には見えず、まったく悪魔のように怖いです」
私もかつて何度も直そうと決心し、また息子に頼みました。「もしお母さんがまた怒ったら、『また自分が修煉者であることを忘れている』と言って教えてね」というと、息子は「聞きますか」と尋ねました。私は「きっと聞きます」と答えました。しかし、自分の心にそぐわないことや思い通りにいかないことがあると機嫌が悪くなり激怒します。法理は分かっていますが、一旦怒り出すと自分をコントロール出来ません。自分の執着心に触れる話があると、直ぐにひどく怒ります。時々、自分の胸に手を当てて反省します。あなたの怒りはどこから来るのですか? どうしてそんなにたくさんの不満と悩みがあるのですか? このように修煉し続ければ、どんな結果になるでしょうか? 自分は以前自暴自棄にこう考えたことがありました。「この意気地のない弟子は修めたことがあまり良くないので、もう諦めましょう」
最近同修の修煉体験を読んでいた時、師父が『カナダの法会での説法』中で言われた、「修煉者は何をしても他人のために考えなければならない」を読んで、とても感動しました。自分の心を深く探すと、私はずっと自己中心的で、はっきり言えば「私」が先になっています。しかし、自分には善の心があり、至る所で他人のために考えて、表面的には自分が修煉者のように、良くできていると思っていました。もし本当に、完全に他人のために生きていて、完全に他人のために考えることができれば、あなたはまた腹が立って、また怒ることができますか? 怒ることは「私」がインチキなのではありませんか? 数年来、やはり私はずっと自己中心的に、不平を言いながら生きており、なんとかわいそうで、なんと恐ろしいことでしょう。どうしてその心を放下することができないのでしょうか? まさか私はこれらの執着を抱いて天国に行くのですか? これらの執着心を見つけてから、私の心はすっきりし、広々とし、明るくなりました。私はこれらの執着心を必ず放下します。私と同じようなおこりん坊で、まだ悟っていない同修が参考にして、今後の戒めにされることを望みます。
2009年5月9日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/5/7/200322.html)
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