修煉者は他人のことを先に考えなければならない ——小弟子が班長になりたくないことから連想したこと) 文/遼寧省の大法弟子
(明慧日本)私の外孫は今年8歳になり、小学校の2年生で、大法の小弟子です。勉強が良くでき、とても賢いのですが、ただ性格は内向的で口数が少なく、担任の先生から見れば、男の子なのに女の子のような性格だと思われていたに違いありません。クラスではそれほど目立つ方ではなありませんが、物事に対しては確実に実行していました。友達と遊ぶ時も、謙虚に相手の気持ちを考え、自分が損をしても相手とのトラブルを避け、クラスメートとの関係は良く、好かれていました。1年生の時の担任の先生は、時には孫を当番の班長として指名したことがありました。
2年生になった時、担任の先生はクラス委員について11人の候補者を選び、クラス全員の投票により4人のクラス委員を決めることにしたのです。孫は第3位で当選し、当選した4人のうち唯一の男子生徒だったのです。
この結果は担任の先生も驚いたようで、孫はクラスメートに声望があったとは、と思ったようです。そして、孫に注目し始め、班長としてチャンスを与えてくれました。ところが、孫が班長になってから、担任の先生は孫がクラスメートに大きな声で話しかけるのを聞いたことがなく、クラスの状況、または生徒の個人の状況も報告を受けたことがなかったようでした。ある日、母親が担任の先生に呼ばれ、次のように言われたのです。「お宅の子供さんはあまりにもおとなしすぎるので、班長としてチャンスを多く与えました。しかし先日、息子さんに伝えたのですが、もう少し積極的にならなければ、いくらクラスメートに選ばれたからと言っても、班長を辞めてもらうようになると伝えました。すると、子供さんはどのように答えたと思いますか? 『僕は班長をしたくないので、やめさせてほしい』と言ったのですよ!」
担任の先生に言われた母親は、耐え切れなくなり、子供に対して「情けない、クラスメートに選ばれ、先生に信頼されて班長になったのに、なぜ積極的にならないの? 選挙の時、班長になりたいと人前でさえ書く子がおり、それでもなれないのに」と子供を叱り、孫は母親を恐れてしまい、何も言い出せなかったのです。
母親に叱られた孫を見て、時間を作って孫とこのことについて話してみる必要があると思いました。しかも、孫は私と仲が良く何でも話してくれるからです。ある日、孫が休みの時、2人で出かけました。遊びながら自然と班長の話に及び、孫はこのように言ったのです。「班長とは、人の上に立って人をよくみて、よくない生徒のことを先生に報告しなければいけないんだよ。報告を受けた先生はその子を叱り、親に知らせ、叱られることもあるんだ。その子は可哀想だよね。先生は僕が大人しいと言うけど、そうではなくて、このようなことを先生に報告したくないからだよ。もし誰かが間違ったことをした時、その子に注意してあげればすむことで、先生に報告した場合はその子は傷つくでしょう。だから、僕に班長を続けさせるのなら、僕はこのようにするんだ」 私は孫に「そのように考えるのは間違いではないと思うよ。自分の気持ちを先生に伝えたの?」と聞きました。そして、孫は「先生に言ったよ。先生は、『それはお人よしだよ』と言ったの。僕はお人よしは悪いと思っていないし、だから、先生は班長を辞めさせようとしたんだ。僕も心からやりたくないから、ちょうどよかったんだよ」と言いました。
孫の話を聞いた私は、大法小弟子として物事を考えていることを知り、とても嬉しくなりました。そこで、孫が誕生した時のことを思い出しました。生まれてくる孫を4人の大法弟子が出産を手助けし、その後mずっと大法弟子の家庭環境の中で成長し、一緒に学法したり、『洪吟』を暗唱したりしていました。だからこそ、心が優しくて清らかで真面目で誠実な子供になりました。時には孫の話したことは大人とは逆だと思ったこともあったのですが、振り返ってみるとまさに「他人のことを先に考えている」ということが分かりました。
幼稚園の卒業写真を撮る時、先生は孫のことが好きで、抱きしめて写真を撮っていました。しかし、でき上がった写真を見ると、孫が嫌がっているように見え、抱かれていた先生の胸から、小鳥のように飛び立つように見えたのです。母親はこの写真を見た時、孫に対して「なぜ嫌がるの? 先生に失礼じゃないの?」と怒って言ったのです。孫は黙って何も言いませんでした。事後、孫になぜそのような態度をとったのかと尋ねてみると、孫は「先生が僕を強く抱きしめるので、先生の顔が隠れるから、離れようとしたのです」 この話を聞かされた時、小さな孫がこのように人のことを先に考えることができるのは素晴らしいことで、本当に褒めてやりたいと思いました。このことを母親に話したところ、嬉しさのあまり、誤解したことを子供に謝り、そして褒めたのです。
ある日、孫と出かける時、ついでに我が家のゴミ袋をゴミ捨て場まで持って行こうとしました。孫は隣のゴミ袋を手に持ったではありませんか。なぜ人の家のゴミ袋を持ったのかと聞くと、孫は「お祖父ちゃんが僕に教えてくれたでしょう。僕達の先生が常に教えてくださっているのは、僕達はどんなことをするにしても他人のことを考えなければならない。だから、手が空いていて、持って行ってあげようと思ったんだ」 そう言われれば確かにそのようなことがあったと思い出しました。それは、私は師父が『スイス法会での説法』を学法していた時に覚えていた法で、「貴方達はどんな事をするにしても、他人のことを先に考えなければならない」と孫に教えたのです。それから、孫は行動の中で法を実践し、隣のゴミを捨てるのをよく手伝っていたそうです。
私は、孫の正直で真面目なところを認めなければならないと思いました。担任の先生が決めたことですが、書いた1週間の日記を毎週月曜日に提出するとのことでした。ある日、書くことがなく、私に何を書けばいいのかを聞いてきたのです。私は何も考えず、思わず「土曜日に凧上げしたことを書いたらどう」と進め、孫は真面目な態度で「それはよくないよ。今日したことではないので、事実ではない。書かなくてもいいから、嘘は付けない」と言ったのです。はっと我に返り、初めて自分が言ったことは法に基づいていないことに気が付きました。そこで慌てて、そうだ、「真」に反することはしてはならないと言ったのです。後日、孫が書いた日記を覗いて見ると、時間や場所、行ったことのすべてが事実に基づいていました。先生からの返事には、「事実に基づいてよく書けている」と書いてあったのです。
この大法小弟子の行動を自分と照らし合わせた時、嬉しい反面、深く反省させられることも多いのです。だから、どんなことでも孫とよく話をしたいと思っています。真に師父がおっしゃったように、「4歳、5歳の幼い修煉者に修煉が良くできている子供が非常に多く、非常に不思議に思われています。また多くの子供は優れた神通を持っています。」(『スイス法会での説法』)私のような老年弟子は、世間の理をはっきりと認識すればするほど自分を閉じ込め、何をするにしても後天に形成した観念で物事を判断してしまうのです。その代わり小弟子は観念が少ないため、物事に対しての判断基準は法に基づいているのです。孫が「班長をやりたくない」ことから考えさせられた幾つかの修煉の過程での出来事を思い出し、文章にまとめ同修と交流したいと思いました。
不適切なところがありましたら慈悲にご指摘ください。
2009年5月12日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/4/20/199260.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
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