■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/05/14/mh151968.html 



真相を伝える時の慈悲心について

文/湖北省の大法弟子 宇新

(明慧日本)先週、学法グループの交流の中で、ある同修はこんな問題を提出しました。「面と向って真相資料とCDを配って三退を勧める時、いつもこんな人と出会います。相手にどんなに真相を伝えても聞こうとせず、顔つきが不機嫌になり、顔色もますます暗くなります。こんな時はどのように対処しますか」という問いに対して、同修Aは、発正念で邪悪を取り除くと話し、同修Bは相手がどこを誤解しているのかを考え、理解できない部分を理解させますと話しました。同修Cは相手の顔色が暗くなったとすると、この人はきっと邪悪に操られていて、この後、彼が何をするのかが一目で分かります。こういう時は、さっとその場を離れます」と話しました。

 私も、同修Cのような考えがありました。諦めずに、真相を話し続けて捕まった同修が何人もいたのではないでしょうか。これは教訓です。私が同修Cの意見に納得していると、突然、同修Dは「私も顔色の変化で邪悪に操られていると分かります。しかし、如何に対処すべきかが問題です。避けるか、それとも救うのか。これは重要な問題です。私たちは相手のために奉仕するのではないでしょうか。私達は慈悲心をかけずに、無念な思いを相手にさせるのでしょうか」と話しました。

 師父は『2005年マンハッタン国際法会での説法』でこのようにおっしゃいました。「つまり、多くの高次元の生命は敢えてこの大きな危険を冒してまで三界にやってきましたが、これは何のためでしょうか? 彼らが神であり、私たちは彼らを救わなくてもよいのでしょうか? 彼らは法を得るために来たのではありませんか? 別の角度から言えば、彼らに三界に来る勇気があるということは、法を正すことを実証し、今回の法を正すことに期待しているのではありませんか? ですから、私たちは彼らを放っておいてはならず、かならず方法を考えて彼らを救い済度しなければなりません! 彼らが一時的に愚かになり、または長期にこの党文化が形成したこの観念によって変異されてしまい、真理と真相を認識することができませんが、それでも私たちは方法を考えて彼らを救うべきです」

 このことから見ると、私達は自分の安全のために一つの生命を放棄してはいけません。どうすれば彼らを救えるでしょうか。それは慈悲心です。私達は相手に真相を伝える時に慈悲心、純粋な心を持つ必要があります。常人はあなたの慈悲心を感受することにより、邪悪は慈悲の下でさっと逃げ、悪い念は慈悲の下で解体されます。慈悲心があれば、真相を伝える時に思い通りに行えます。

 前回、私は真相を話す時に村の治安主任に会って、彼に真相を伝え三退を勧めました。彼は突然、大声で「あなたは私が何をするか分かりますか。私はあなたたちを捕まえるために来たのです」と話しながらポケットから携帯電話を出しました。この時、私は涙が思わず湧いてきました。心から「こんなに若い、こんな良い生命が邪悪に欺かれて残念だ」と思いました。私は続けて「私があなたに話したことは全て真実のことで、あなたの美しい未来のために話したのです」と言いました。彼は私が驚かず、その上、突き放すこともせず、涙を流しながら真心で自分に話してくれているのを見て突然「分かりました。お姉さんはとても良い人だと思います。心がこんなに善良で、私のために話してくれたので、あなたの言うことを聞き脱退します」この時、私は慈悲心で彼の心が解けていくのを感じました。

 慈悲心は無理に出したのではなく、自然に出てきたものです。修煉の過程で、各種の執着を絶えず放棄して、無私無我、なおかつ他人を優先し、自分を後回しにするという正覚を修めてから始めて生じるものです。師父は『洪吟二』「淘」で「慈悲救度知るは多少」と説かれました。個人の次元で、詩で師父が衆生に対する洪大な慈悲を表したと悟りました。その後、衆生を済度することにおいて大法弟子の洪大な慈悲心も必要であると感じました。もちろん師父の説法はもっと深い内涵があります。私は他の同修が次のように話しているのを聞きました。「慈悲心が生じてから真相を話しましょう」慈悲心は待っていて生じる心ではなく、絶えず面と向って真相を話す中で、怖がる心、歓喜心、闘争心などの各種の心を絶えず修めて生じるものです。

 2009年5月14日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/5/10/200541.html

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