■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/05/15/mh165514.html 



法の中で修めてこそ、全面的に旧勢力を否定することができる

文/米国の大法弟子

(明慧日本)大法弟子がよく口にする言葉があります。それは、「旧勢力の按排を否定する」ということです。しかし、旧勢力を否定することは口先のみで本当に可能なのでしょうか? それは、法を実証する中で実修する過程で、法の要求に基づいて厳格に着実に行って、初めて真に旧勢力の按排を否定できるのです。

 海外の大法弟子が、師父に遵って法を正すうちの項目の一つである神韻公演を例にしてみましょう。実際は、公演過程の全てを師父が行っており、しかもそれは完璧であります。しかし、なぜ一部の地区ではあまり満足できない結果に終わってしまったのでしょうか? 明らかに、この中の重要な原因の一つは旧勢力の阻止と妨害によるものです。実際、師父が我々大法弟子のために行った全て、宇宙の異なる次元の衆生のために行った全て、小さいものから大きなものまで、ミクロからマクロまで、宇宙の各大穹の全ての空間を含めて、全てが完璧に行われており、ほんの少しの漏れもないのです。旧勢力及び宇宙の法を正すことに参与していない神々たちも全てを見ており、現在の彼らも圓満成就後の大法弟子も、師父が法を正す過程で行われた全てに対し、ケチをつけることは何一つないのです。神々は、師父が法を正す過程で行われたことに対しケチをつけることがないばかりか、ひたすら敬服するのみです。それは彼らにはできないことだからです!

 過去に宇宙から地球に衆生済度に来た神々は、地上の人間がまだそれほど悪くなっていない時を選びました。しかも、済度したのは副元神でした。無数の苦労を嘗め、力を尽くしても、何人も済度することはできませんでした。今日、師父は宇宙有史以来、人類が最も退廃している時期に衆生を済度しており、主元神を済度しているのです。しかも、人を宇宙大穹の王や主の位置に帰還させています。これは宇宙の歴史上かつてなかったことであり、神々が考えもつかなかったことです。有史以来初めてのことなので、彼らが師父に対してひたすら敬服するのは当然のことなのです。それでは、旧勢力はなぜ師父が法を正すことを妨害するのでしょうか。実際のところ、全ての妨害は大法弟子を目掛けて来ているのであって、師父とは何の関係もないのです。

 神韻公演を主催するにあたって、その過程は私たちの多くの人が想像している事とは違うのです。私たちは常人の各種の能力や方法を使って、広告を出し、ポスターを貼り、スポンサーを見つけるなどの方法で観客を劇場に連れてきたのです。しかし、これだけでしたら、それは常人が行ったこととなんら変わりはありません。その過程の一部の事実はこうなのです。私たちが神韻公演の主催を決めたとき、大法弟子の皆さんは理知的ですから、口先だけで行うと言って、その後は何も動かず、空から餅が落ちてくるのを待つような人は誰もいないはずです。一般的には劇場が決まった後、宣伝、広告、ポスター、チラシ配布、スポンサー探しなどに関する企画を立てます。大まかな計画を立てた後、まだ私たちが動く前から、師父はすでに劇場に入る観客を私たちに用意して下さっているのです。その後、私たちが実際事を進めて行く過程で、協調者の協調の下で、各自できることを行っているように見えますが、実は私たちが行った全ては師父が按排されたことなのです。この人は協調を行い、あの人は広告やスポンサーを探す、ポスターを貼る、チラシを配布するなどなど、一人一人について非常に細かいところまで按排して下さっているのです。師父は本当に全てを用意して下さいましたが、もちろん一人一人には基準があり、しかもその基準は非常に高いのです。

 私たちが良くできていないとき、あるいはあまり良くできず基準に達していない時の例を挙げると、この人に100枚のポスターを張るように按排したのに、様々な原因で70枚しか貼らなかった時、あるいは広告の営業の時、真相を伝えたことによって無料の広告あるいは非常に安い広告を獲得するはずが、広告営業を常人の商売とみなし、結果予算オーバーした時などの全てが、私たちが基準に達していないときにもたらした結果として、師父が満席に按排した衆生を外に追い出したことになるのです。

 人間の立場から見た時、それは私たちが多くのことをしっかり行えなかったので、多くの来るべき観衆が来ない結果となりました。高次元から見た時、私たちが良くできなかった根本的な原因は旧勢力の妨害によるものです。今日、人間社会にいる大法弟子は、いかに良く修煉できていても、皆ある程度各種の執着心を持っています。私たちが何かを行う時、本当に神聖になれるのは数割程度で、どれほどの人心を持っているのか、出発点は法を証明することにあるのか、それとも自分を証明することにあるのか、自分を完全に放棄して他人に協力することができるのか、無私無我の程度・・・・すべての人心と執着など、多かれ少なかれ、それらは全て天上の神の目から逃れることはできないのです。天上からは全てがはっきり見えるのです。具体的に何かを進めていく過程で、旧勢力は我々の各種の執着心と人心に向けて全面的に妨害と試練を与えるのです。これらの妨害の前で、心性を守ることができ、真に修煉者の基準に達し、妨害の中でも心を動かさずに妨害を受けなければ、師父は我々の身体からその物質を取り除いて下さいます。大法弟子はこの過程で向上し、昇華していくのです。ですから、真の向上と昇華は心をえぐり骨身に伝わるような苦しみの中で人心を取り除き、執着を取り除く過程で現われ、これは修煉の中で変わらない法理なのです。

 「4.25」以前の平和的な修煉時期がそうでしたし、雄大で勢いが凄まじい法を正す修煉もそうであり、法が正された後の未来の修煉も同様です。そうであれば、私たちの弟子全員がみな妨害を受けないように行うというのも不可能で、事実上、一人一人がみなある程度妨害されているのです。ただ、妨害を少なく受けている人もいれば、多く受けている人もおり、一部の人は非常に深刻な妨害を受けているのです。しかし、いかに妨害されようと、結果は、師父が救おうとしている衆生を押し出してしまうことになるのです。私たちがどれくらいの衆生を救えるのかは、私たちの修煉の次元、果位の大小を代表しており、私たちが着実に行えなかった代価として、師父の法を正す進展と衆生済度の効果に影響を与えることになるのです。こうしてみると、私たちが放棄できない人心と執着心を持って法を正すことを行う時、表面では大変苦労しているように見えても、実は師父が救おうとしている衆生をみな外に押し出しているのであり、事実上はこのような働きをしているのです。もちろん、私たちが行ったことが完全に法と合致している時、良くできた時、旧勢力は何も言えないのです。

 私たちはみな知っています。師父が法を正すことにおいて、全てに基準があるのです。もし私たちが師父の要求通りに行わず、自分の観念に基づいて、自分の執着に基づいて行うとしたら、私たちと旧勢力とは何の区別があるのでしょうか。私たちが旧勢力と同じことを行った時、何をもって旧勢力を否定するのでしょうか。修煉前の私たちはみな旧宇宙の生命であり、骨身には億万年かけて旧勢力が按排し作り上げたものが染み込んでいます。法に則っていない時、それはつまり旧勢力の按排した道を歩むことになり、旧勢力の道を歩みながらどうやって旧勢力を否定できるのでしょうか。気と気の間には制約作用がありうるのでしょうか。根本的に不可能なのです。そのため、旧勢力を否定するということは決して口先だけのことではなく、絶えず法に同化し、着実に法に則り、法の私たちに対する基準に達した時に初めてできることなのです。法だけが全てを正すことができ、法だけが根本的に旧勢力を否定できるのです。 

 2009年5月15日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/5/11/200613.html

明慧ネット:jp.minghui.org